偽少女の顔立ちに、ときめいた
ある日、景行はオウスノミコトに、九州へいってクマソを成敗するよう言いつける。命じられ、『日本書紀』のオウスノミコトは、そのままクマソへ旅立った。『古事記』の皇子は、遠征へおもむく前に、叔母のヤマトヒメとあっている。伊勢神宮の斎宮でもある彼女からは、その衣服をもらっていた。
『古事記』では、そんな叔母ゆずりの衣裳を身にまとい、クマソの宴席で女装する。いっぽう、『日本書紀』に、叔母の衣類うんぬんという記述はない。こちらは、ただ、女の格好をして宴会の場へもぐりこんだと、しるすのみである。女物の衣服をどう調達したのかについては、なにも書いていない。この違いは、あとでも問題にする。おぼえておいてほしい。
さて、『日本書紀』である。この記録で、クマソの族長はトロシカヤ、あるいは川上タケルという名前になっていた。ここでは、ヤマトタケル命名譚とのかねあいもあり、川上タケルで統一する。
オウスノミコトが、クマソの本拠へ近づいて間もないころのことである。川上タケルは、一族の者をあつめ宴会をひらいていた。新築の祝いであったという。
その場へ、オウスノミコトは少女のようによそおい、潜入する。族長・川上タケルのいる部屋へも、はいっていった。『日本書紀』の記述は、こうつづく。オウスノミコトが、川上タケルを懐剣でさすまでの描写である。
「川上梟師(タケル)、其の童女の容姿(かほよき)に感(め)でて、則ち手を携へて席(しきゐ)を同(とも)にして、杯を挙げて飲ましめつつ、戯れ弄(まさぐ)る。時に、更深(よふ)け、人闌(うすら)ぎぬ」(岩波文庫 1994年)
川上タケルは、皇子がなりすました偽少女の顔立ちに、ときめいた。手をとり、同席させ、酒もくみかわしあっている。のみならず、たわむれまさぐった。しかも、夜がふけて、人影がまばらになっていくまで。