「宴会の最中に、皇子は懐剣をぬき、まず兄の胸をさしぬいた」芳年が描いた日本武尊と川上梟師
「芳年武者无類 日本武尊・川上梟師」大蘇芳年、1883年
国会図書館デジタルコレクション

主人公が「受け」から「責め」へ

こんどは、『古事記』のほうを紹介しておこう。クマソが新築の宴をひらいた点は、『日本書紀』とかわらない。オウスノミコトが、女装姿でその宴席へのりこむ点も、同じである。ただ、その装束が叔母のものだと明示された点は、前述のとおりちがっていた。

『古事記』にでてくるクマソのリーダーは、川上タケルを名のらない。クマソタケルと称していた。また、族長がふたりの男、兄弟になっている点も、『日本書紀』とはちがう。クマソタケルの、かたほうは兄であり、もういっぽうはその弟だとされていた。

女になりすまし宴の場へあらわれたオウスノミコトは、兄弟の間にすわらされている。『古事記』は、その部分をこうあらわす。

「熊曾建(クマソタケル)兄弟(あにおと)二人、その嬢子(おとめ)を見感(みめ)でて、己(おの)が中に坐(ま)せて盛りに楽(うたげ)しつ」(岩波文庫 1963年)

やはり、女装をした皇子の美貌にそそられ、兄弟はオウスノミコトをよびよせた。ふたりは、「その嬢子」をはさみつつ、宴をたのしむようになる。

そんな宴会の最中に、皇子は懐剣をぬき、まず兄の胸をさしぬいた。おどろいた弟は、その場からとびのき、階段の近くまでにげのびる。だが、うしろからせまったオウスノミコトに、背中をつかまれた。さらに、剣を尻へさしとおされてしまう。

尻をつらぬかれた弟は、剣の静止を要請し、相手の正体をたずねている。ヤマトの皇子、ヤマトオグナだと聞かされ、彼は自分たちの名前を贈呈した。これからは、あなたのことをヤマトタケルとよぶようにしよう。そう皇子にはつげて、絶命する。

ここでも、タケルの名は今際(いまわ)のきわに、おくられた。しかも、剣が尻をさしている、その時に。この場面は、『日本書紀』のそれ以上に、同性愛のたかぶりをしめしていないだろうか。ゲイのクライマックスが暗示されていると、私は感じとってしまう。もちろん、論証はできないが。

オウスノミコトは、女をよそおい宴席へまぎれこんでいる。クマソの族長兄弟からは、その「嬢子」ぶりがめでられ、そばへひきよせられた。この段階で、男だと発覚した形跡はうかがえない。兄弟殺害の直前まで、ふたりは皇子を女の子だと、思いこんでいる。

あえて、同性愛の文脈におとしこめば、オウスノミコトはかわいがられる側にいた。「受け」の役へ、まわっていたことになる。だが、弟の殺害にさいしては、剣を尻へつきたてた。「責め」る役へと、立場をかえている。しかも、かなりとうとつに。

主人公が「受け」から「責め」へと、役割をかえていく。こういう転換をおもしろがる読者が、8世紀初頭にいたと言いきる自信はない。また、書き手がそういう効果をねらっていたときめつけることも、できないだろう。

女装者への同性愛的な好奇心が、いつごろどうひろまっていったのかはわからない。クマソとヤマトタケルのかかわりに、そのさきがけを読みこむことはひかえよう。