性的な読みときをこころみた学者も
ただ、道具立てはそろっている。女になりすます美少年、かわいがる男たち、死のまぎわにおくられる名前、尻に剣……。ここには、女装者をめぐるゲイ的な気配がただよっていると、うけとれる。少なくとも、私にはそう読める。書き手に、その意図があったかどうかは、わからないのだけれども。
なお、尻へ剣をさす話については、性的な読みときをこころみた学者もいる。上代文学を専攻する畠山篤が、こう書いていた。「男色の性的交渉をうかがわせる。それも女役になるべき美少年が男役の大人を痛烈に犯す形をとっている」、と(「ヤマトタケルの女装――歴史のなかの女装」礫川全次編『女装の民俗学』1994年)。
学界のなかにも、きとくな人はいるということか。じっさい、こういうことを書きとめた人は、ほかにひとりも見つけられなかった。
しかし、せっかくの指摘だが、私は「男色」という言葉づかいに、なじめない。それは、美少年が年長者をうけいれる場合にこそ、ふさわしい語彙である。そして、この話ではヤマトタケルのほうが若い。また、美しくもある。
年長者の尻に、美少年のほうが剣をさす。この展開は、だから因習的な男色というカテゴリーにおさまらない。その枠をこえている。私としては、彼らの交渉を、よりひろい同性愛という概念のなかで、とらえたい。
いずれにしろ、ヤマトタケルは美少年としてえがかれた。女と見まがう色香で、敵をほうむりさっている。クマソの前へあらわれた皇子は、女装のテロリストにほかならない。室町時代には、牛若=遮那王像も同じような脚色をほどこされた。奈良時代のヤマトタケル像は、その先駆的な表象として位置づけたい。