《ただの速い人》じゃダメなんだ
事故から半年後、私の中にはトライアスロンで健常者の大会へ出たいという気持ちが芽生え始めていました。自転車で事故に遭ったのに怖くないのですか、と聞かれることもありますが、事故の記憶がないからか、恐怖心はなかったように思います。でも、体のほうは以前のようにはいかなくて。
理学療法士の先生はエアロバイクをリハビリのメニューに入れてくれました。しかし、退院後にロードバイクに乗ってみると、ブレーキのかけ方がわからない、まっすぐは走れても曲がることができない、などの壁にぶつかりました。
そんな時、息子が所属する自転車の実業団の社長が私の状態を見て、パラサイクリングに興味はないか、と誘ってくださったんです。私は自分の障害の度合いが軽いほうだと思っていたので、一度はお断りしました。でも、大会を見学させていただいた時、同じ障害を抱える選手が自転車に乗っている姿を見て希望が湧いて……。レースのレベルも高く、闘志に火がつきました。そこから猛練習をして、17年の世界選手権タイムトライアルで優勝、18年の世界選手権ロードレース優勝を勝ち取りました。
でも、努力ではどうしようもなかったこともあります。それはパラアスリートとしての人気や知名度の部分でした。18年の世界選手権で優勝した時も、ほかの選手たちから「日本に帰ったら取材殺到だよ」と言われたものの、実際に帰国してみたら、空港はシーン……。《ただの速い人》では注目もされないし、スポンサーもつかないのです。もうやめちゃおうかな。パラリンピックは出られなくてもいいや。
そんな気持ちを、メンタル面のアドバイスをしてもらっているコーチに伝えたら、「僕は佳子さんの頑張っている姿を見ていたい。コーチたちも佳子さんにメダルを取ってほしいと思って頑張っているはずだよ」と言ってもらって。その言葉で、私も頑張ろうと思うことができました。パラリンピックの代表に内定してからは、勝ちに行くぞ、という意気込みでした。
だから、コロナ禍で開催が1年延期になったことはショックでした。49歳から50歳へ。伸び盛りの若い子の1年とは違います。私のそんな気持ちを察したのでしょうね。自転車競技オリンピアンの飯島誠さんがすぐにメッセージをくれて。彼は同い年なんですが、「49と50なんて誤差の範囲だよ」と励ましていただきました。
実はこの時期、レース中に一度酸欠になって倒れてしまったことがあり、日本パラサイクリング連盟からは続けるのは難しいのでは、とも言われたのです。でも、飯島さんの言葉で、もう1年やってみようと思えました。