本居宣長の読み解きと対する論者の指摘

こういう解釈は、江戸時代のなかばすぎに浮上した。最初に言いだしたのは、国学者の本居宣長である。『古事記伝』(1790‐1822年)という著作で宣長は、そのことを書いている。

『国史の光 上』(著:中村栄作/博文館)より、ヤマトタケルの熊襲討伐。(出典:国立国会図書館データベース

ヤマトヒメは、「伊勢大御神の、御杖代(ミツエシロ)」である。伊勢の神をささえる、杖がわりのような存在にほかならない。そんな斎宮から、ヤマトタケルは衣裳をたまわった。この贈与は、伊勢の「御威御霊(ミイキホヒタマ)を仮賜(カリタマ)はむの御心なりけむかし」(『本居宣長全集 第一一巻』1969年)。衣類とともに、伊勢の威光と神霊も、さずけるつもりだったのだろうという。

そう推理をすすめつつ、宣長は以下のような説明もおぎなった。もし、神威の伝授などなかったというのなら、わざわざ斎宮の衣類をもらう必要はない。「女人の衣服なりとも、新(アラタ)に裁縫てこそ用ひたまふべけれ」、と(同前)。

ただ、世俗的な女装をするだけなら、ふつうに女服をあつらえれば、ことはすむ。しかし、ヤマトタケルは伊勢の斎宮からそれをもらいうけた。巫女ゆずりの服を身につけ、敵をほろぼしている。やはり、伊勢の神やヤマトヒメの神威には霊験がある。そのあらたかさをしめすための物語だという読み解きに、なっている。

今日の代表的な『古事記』の註釈書は、たいていこれを肯定する。たとえば、倉野憲司の『古事記全註釈』は宣長の読みを、まるごとひいている。そして、「これは卓見である」と、わざわざ書きそえた(第六巻 中巻篇〔下〕 1979年)

さらに、叔母からあたえられた衣裳を、こう位置づける。「天照大神の御加護を見象化したものに他ならない」。アマテラスによる霊的な防禦力が、そこでは服装という形であらわされている。女装じたいも、「天照大神の御加護を念じての」振舞であったと、結論づけた(同前)。

あとひとつ、西郷信綱の『古事記注釈』も、紹介しておこう。ヤマトタケルがヤマトヒメから、女の装束をゆずりうける。このくだりを西郷は、つぎのように説明する。「記伝にいうとおりそれは、伊勢斎宮であるかの女の霊威を借り」たのだ、と(第三巻 1988年)。

「記伝にいうとおり」の「記伝」は、宣長の『古事記伝』をさしている。そして、西郷もヤマトヒメは、服装をつうじ甥に霊威をあたえたと解釈する。その点は、宣長が『古事記伝』にのべたとおりであると、書きそえてもいた。

じっさい、宣長以後、その読解に異をとなえたものは、ほとんどいない。多くの論者が、同じような指摘をくりかえしてきた。たとえば、作家の幸田露伴が、1928年に書いている。ヤマトタケルは叔母をつうじて、アマテラスの「威霊を仮(か)りたまふ」たのだろう、と(「日本武尊」『露伴全集 第一七巻』1949年)。

ヤマトタケルの征討は、「必ず天照大神の御意志を、その背後に負ふていた」。それは「ヤマトヒメより賜りしものによつて、成功し得たのである」。そうのべたのは、歴史家の肥後和男であった(『日本神話研究』1938年)。これも宣長説をひきつぐ解釈のひとつにほかならない。