論調の変化

戦前の尊皇思想が、論者を皇祖崇拝へなびかせたと思われようか。だが、かならずしもそうではない。敗戦後の左翼的な書き手も、しばしば似たような見解をあらわした。20世紀なかばに共産党の歴史観を指導した藤間生大(とうませいた)の読みも、その点はかわらない。少年少女へむけて書いた本を例に、その論述ぶりを、披露しておこう。

埼玉県の武甲山。ヤマトタケルが東征の成功を祈って武具や甲冑を納めたという伝説が残る(写真提供:写真AC)

「神につかえているオバサンから貰った衣裳を、とくにつけたということは、神のまもりを心に信じているからです。ひとたび露見すれば敵中ただ一人、相手を殺すどころか、あっさり敵にとらわれて、なぶり殺しになるのがせいぜいです。悲壮な決心は、神のまもりを求めたわけです」(『日本武尊』1953年)。

単身で敵陣へのりこむ。そのあやうさが、皇子を神にすがらせた。神につかえる叔母から衣裳をもらったのは、そのためだという。藤間はヤマトタケルの内面もおしはかったうえで、宣長の説を継承した。神の加護を強調する語りは、左翼の側にも共有されていたのである。

ただ、1950年代のなかばごろから、学界の様子はかわりだす。論調に変化のきざしが見えはじめる。論じ方が、ふたつの方向へわかれていくようになった。

口火を切ったのは、歴史家の水野祐であったろう。水野もヤマトタケルが霊威をさずかったことは、否定しない。ヤマトヒメのあたえた女の装束が霊的な力となり、ヤマトタケルを英雄たらしめた。この解釈は、みとめている。それは、「古事記を読んだ誰もが承認するところ」だとさえ、言いきった(「倭建命と倭武天皇」『史観』1955年3月)。まあ、私は「承認」しないのだが。

ただし、ヤマトヒメを伊勢の斎王だと強調しすぎるのは、まちがっているという。「未婚の皇女の巫的霊威を明らかにするだけで充分だ」と、水野は判断した(同前)。『古事記』は、まだ伊勢神宮の権威が確立される前の価値観で、書かれている。だから、神宮の神威などという話を、もちだす必要はないと考えた。

その4年後に、やはり歴史家の直木孝次郎が正反対の意見をのべている。ヤマトタケルは、女装をすることで、「伊勢大神の宗教的威力を身につけ」た。クマソ征討の物語は、「伊勢大神の霊験談」になっている。そう書きたてた(「ヤマトタケル伝説と伊勢神宮」『国史論集 創立五十年記念 第1』1959年)

もともとの女装説話に神宮の関与があったと、言っているわけではない。ただ、『古事記』があまれるころには、神宮の勢力もヤマトへおよんでいた。あるいは、ヤマトも神官とのかかわりを強めている。だから、「伊勢神宮関係者による改作、脚色」がありえたと、直木はおしはかる(同前)。

はたして、ヤマトタケルの女装譚は、どのような物語だったのか。皇女であり巫女でもあるヤマトヒメが、霊力をあたえる話である。そう、水野は言う。いっぽう、直木はちがう側面を強調した。伊勢神宮じたいの神威が、ヤマトタケルをまもるところに力点はおかれていると。以上のように、直木は論じた。では、どちらの要素が『古事記』の女装譚には、より強くこめられていたのだろう。