学界への違和感

のちの学者たちは、この点をめぐり甲論乙駁を繰りひろげた。霊力や神威の、よってきたる根は何なのか。ヤマトヒメじしんか、その背後にある伊勢神宮か。そんなやりとりを、21世紀にはいってもつづけている。

くりかえすが、神威説を最初に言いだしたのは、江戸時代の宣長である。彼の『古事記伝』から、宗教的な読解ははじまった。だが、宣長は、ヤマトヒメと伊勢神宮の両者に、優劣をつけていない。悪く言えば、その点はあいまいなままにしている。

あるいは、両者を一体的にとらえていたと言うべきか。ヤマトヒメの霊威と神宮の神威は、あえてわけるまでもない。どちらも、同じ呪力の両面だと、考えていた可能性はある。この点では、後世のほうが分析的でありすぎるのかもしれない。

ヤマトタケルはヤマトヒメから「御衣御裳を給は」った。『古事記』には、そう書いてある。しかし、どこでそれをてわたされたかについては、記述がない。皇子がわざわざ伊勢まででかけて、もらったのか。それとも、たまたまヤマトに滞在していた叔母から、うけとったのか。その点は不明である。

ヤマトタケルは、「伊勢神宮に参向した、と考えてよかろう」。神宮の霊験を強調したい直木は、そうのべる(同前)。

しかし、『古事記』の当該部分から以上のように読みきることは、困難である。直木説に批判的な、たとえば星山真理子も、この点を見すごさない。「伊勢に参向した」と「考えるべきなのであろうか」(「『倭男具那命』考」1976年)。そう疑問をなげかけている。

いっぽう、直木説にしたがう守屋俊彦は、こうのべた。「常識的には(中略)伊勢に行って会ったとするのが穏当なところであろう」、と(「倭建命の征討物語―原話への接近」1985年)。

伊勢の神威を強く印象づけたい論じ手は、皇子が伊勢まででむいたと言う。神宮のウエイトを軽んじようとする立場の人たちは、これにしたがわない。皇子の伊勢訪問をしめす直接的な記述はないと、言いたてる。

なお、宣長の『古事記伝』は、この点についての白黒もつけていない。ぼやかしたまま、議論をすすめている。理解しきれないところは、無理にさぐらないということか。その不明な部分をめぐって、今の研究者は論じあっているのだと言うしかない。ああでもない、こうでもない、と。

ただ、ヤマトタケルの女装に神威や霊威を読む見方は、すっかり定着した。その呪的な力が何に由来するのかをめぐっては、意見がわかれる。しかし、そこに世俗をこえた何かが読めるとする点では、かわらない。

冒頭でものべたが、私はそんな学界の風潮に違和感をいだいている。

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