血縁のつながりだけが《家族》じゃない

もうひとつ、今回、訴えたかったのは、「血のつながりだけが家族なのか?」ということです。この作品でも、千鶴は実の母である聖子とはとても相性が悪いけど、聖子の介助を担っている彩子とは、他人だけど相性がいい。それでもお互いに支え合っていけるなら、それもひとつの《家族》と呼べるんじゃないか、と。血のつながりだけに縛られない、人と人との様々なつながりをこの作品で書いてみたいと思いました。

私が考える家族の定義は、血のつながりがあるなしに関わらず、毎日、同じ食卓を囲んで、「今日は、どうだった?」と、お互いを見守り、支え合える関係です。実は私、あまり親しくない人と一緒に食事をするのが苦手なんですね。「仕事で会食」なんていうときは、毎回、ものすごく緊張して冷や汗をかいちゃって。この人だったら大丈夫と思える人とじゃないと、心から食事を楽しめない。ましてや、毎日一緒に食事をするなんて、その相手は家族以外には考えられません。

とはいえ、「家族イコール血縁」という考え方に縛られていると、生きづらい人や、しがらみの中で傷ついている人も多いでしょう。特に、今は多様化の時代ですから、これからはもっと様々な《家族》が生まれてくるはず。その中で、自分が一番心地良い家族の形を作っていけばいい。日頃から、そんなふうに考えていることもあり、小説の中で家族の姿を描くときは食事のシーンを一番大切にしているのです。

実際の生活でも、うちの子どもたちにはひとりきりで食事をさせないようにしています。子どもたちが夕飯を食べている横で、「それ、おいしい?」なんて聞きながらビールのグラスを傾けているときが、私にとっては至福の時間なんですよ。

今は多様化の時代ですから、これからはもっと様々な《家族》が生まれてくるはず(町田さん)