なぜ彼に対する好奇心が引きのばされたか

ショーケンと呼ばれるそのおとこが、私の庵に来たのはこれで二度めだ。最初は五年ほど前、婦人雑誌の対談で、婦人記者に伴われて来た。背広を着てきれいに髪を撫でつけたショーケンは、固くなっていてほとんど答えらしい答えが出来なかった。

対談上手といわれた私が、これまでの対談の中で最も苦労し、まるで挽臼(ひきうす)でもひっぱっているように疲れたのがそれだった。それでいて対談の後味は悪くなく、引き受けたことを後悔もしていなかった。

三十歳にまだ二年の間があったその日のショーケンは、眺めているだけでも爽やかで、無疵(むきず)な李朝の壺にでもむきあっているような、快い興奮と、一種のもの哀しさを、そそるものを持っていた。

活字になる時、ずいぶん手をいれたが、どうしようもないほどショーケンの口数が少く、ほとんど私ひとりの独演会の様な、アンバランスな対談になってしまった。

二時間も同席して、喋りつづけ、結局、私はショーケンの好もしい外貌以外、何ひとつ彼を識ることが出来なかった。壺はなめらかで、いくらでも触ることは拒まないが、その肌に爪をかけることは出来ないのだった。幾度か叩いてみても、うつろな空洞の反響音しかかえって来ない。

人間はどんな人でも、他者に向うと、自分を表現して、少しでも理解してもらいたがるものだと思いこんでいた私は、ショーケンに逢ってはじめて、全く自分を語る表現力のない、あるいは表現欲のない人間にめぐり逢い、少なからず愕かされた。そのことが、かえって私のショーケンに対する好奇心を引きのばし、関心を持続させていたといえるかもしれない。

はじめて現実に、間近で見た時のショーケンは、テレビで見る映像より、はるかに非現実的な感じがした。人間よりろう人形に近い皮膚の色となめらかさに、決して人形には真似出来ない、うるんだ夢でも見ているようなけだるそうな目の光が加っていた。

彼が立ち去った後で何時間かして、私はふっと妖精ということばを思いだし、ようやく気持が落着いたのを覚えている。