歌手で俳優の萩原健一さんから「お母さん」と呼ばれていたという瀬戸内寂聴さん(撮影:篠山紀信/提供:講談社)
2021年11月に99歳で亡くなった瀬戸内寂聴さんは生前、多くの文化人、著名人と交流を重ねました。特に、歌手で俳優の萩原健一さんとは親しく、萩原さんが2019年に68歳で亡くなるまで、二人の縁は40年ほど続いていたそうです。しかし最初に二人が対面した際、寂聴さんは荻原さんから「この世ならぬ妖しさ」を感じたそうで――。

その逃亡者は風のように

手伝いの少女が開けた庵の木の扉から、その逃亡者は風のように軽々とす速く入ってきた。白い小粋なハンティングを目深く額に下していたが、サングラスもかけず素顔をさらしていた。

門から玄関までのゆるい勾配の石段の上は、楓のトンネルになっている。繁りあった樹々から洩れる蒼く濾(こ)された夕陽に染り、おとこの顔は透きとおるように蒼く、たった今、水底から引きあげられたばかりの人のように見えた。おとこのしなやかな長身にまつわりつく葉洩陽(はもれび)の光りの玉が、おとこの動きで、全身から振りこぼされる雫のように見える。

目を伏せたままのおとこは、玄関の戸口まで出迎えている私の視線に、まだ気がつかない。つと、ハンティングをとり、片掌の中に、一つかみに握りしめた。

数時間前、テレビの画面の記者会見で見た顔より、憔悴(しょうすい)した顔がしまり、疲れの滲んだ顔に垂れ下ってきた髪の乱れが、痛々しさを誘う。屋島からひとり逃れ、那智の沖で入水(じゅすい)する維盛(これもり)を、唐突に連想しながら、私はおとこのやつれた美しさに、一瞬気をのまれていた。

ようやく顔をあげ、私に気づいたおとこは、とっさに幼児のような無防備な笑顔になりかけ、ふっとその顔を曖昧に強(こわ)ばらせた。自分の今の立場から、どんな表情をとっていいのか迷ったふうに肩を落し、目を伏せた。

座敷に向いあうまで、私たちは口を利かなかった。

おとこは歌手で、俳優の萩原健一だった。