したたかな意図など子どもにはない
学校に行けないわが子を見る親の動揺は、どこからきているのでしょうか。
いまの中高生の親の世代は、だいたい平成の初期から中期に思春期を過ごしている人が多いのではないでしょうか。授業時間が削減された「ゆとり教育」の真っただ中です。その当時の教育現場は、高度成長期の「詰め込み主義」からの過渡期で、その風潮がまだ色濃く残っていました。学校は行くものであり、休むのは悪いことのようにとらえられていました。
そんな教育を受けてきた親たちにしてみれば、学校は行くのが当たり前のところであり、欠席するなどありえないのです。
そのありえないことを、わが子がやる。しかも、どう見ても重病には見えない「朝寝坊」によってですから、親としては冷静でいられません。つい、きつく当たってしまいます。カーテンを開け放ち、布団をはぎ取り、半ば感情的に揺り動かし、大声を張り上げます。
やがて親も疲れてきて、今度はいらだちを直接子どもにぶつけるようになります。
「怠けているんだ」「根性がない」「仮病だ」、感情的な言葉の数々です。
では、そんな親の動揺を、子どもたちはどう受け止めているのでしょうか。
当の子どもたちには、怠けているつもりも、仮病を使っているという意識もありません。ただひたすら、目が覚めない、身体が動かないだけです。
一つ例外として、心身症としての起立性調節障害があり、この場合は「行きたくない」という心理が「起きられない」の裏側に潜んでいますが、これについては著書で詳しくお話しします。とにかく、起きようとしない、したたかな意図など、子どもにはないのです。