9世紀初頭の神宮は皇子の伝説を黙殺した

神への供物に「嚢(ふくろ)二口」のあったことを、『皇太神宮儀式帳』はしるしている(『群書類従 第一輯 神祇部』 1929年)。ここには、ヤマトタケルとのかかわりが、少ししのべなくもない。

『古事記』のヤマトタケルは、東征のさいにヤマトヒメから「御嚢」をもらっていた。火打石のはいった袋である。その火打石で、ヤマトタケルは窮地を脱したことがある。相模でしかけられた火攻めから、にげのびた。物語のなかで、神威がこめられた品のひとつではあったろう。

『古事記』にでてくる「御嚢」は、『皇太神宮儀式帳』の「嚢」と同じなのか。もし、いっしょであるのなら、こう推測する余地はある。ヤマトタケルをたすけた袋は、神にささげられていた。やはり、皇子をまもった品は、神宮でもそれなりにあつかわれていたのだ、と。

ただ、この袋がどのようなものであったのかは、わからない。東征へおもむくヤマトタケルにあたえられたものと、つうじあうのかどうかは不明である。

かりに、同種の袋であったとしても、両者の通底性には、あいまいな点がのこる。とにかく、『皇太神宮儀式帳』は、ふたつの「嚢」が同じだと書かなかった。神宮にある袋を、ヤマトタケルが相模でたよった袋と同一視する記述は、どこにもない。この文献は、そこが特筆にあたいすると、みとめていなかった。まあ、両者はまったく別物だったのかもしれないが。

伊勢神宮最古の記録は、くりかえすがヤマトタケルにふれていない。かろうじて接点がありそうな「嚢」も、ヤマトタケルとの関係はおぼろげである。はっきりとは、させていない。『皇太神宮儀式帳』に、そこをうたいあげる意図がなかったことは明白である。

ましてや、クマソ遠征前のおくりものである女服については、まったく記載がない。それらは、神前へそなえられるようなものではなかったと、みなしうる。

通説は言う。『古事記』の書き手や語り部は、ヤマトタケルの女装に神威を投影していた、と。その可能性がないとは言わない。しかし、かんじんの伊勢神宮は、そういうことを考えていなかった。『古事記』の編者は、考えたかもしれない。しかし、神宮側は眼中にもいれていなかった。

『古事記』は、712年にまとめられている。『皇太神宮儀式帳』は、その92年後に朝廷へ提出された。720年に編纂された『日本書紀』とくらべれば、84年後の献本ということになる。

『古事記』や『日本書紀』には、ヤマトタケルの話がのっていた。東征伝説のほうは、伊勢神宮とも関係のある話として、両書におさめられている。にもかかわらず、『皇太神宮儀式帳』は、ヤマトタケルへ言いおよんでいない。8、90年後の記録だが、記紀のあらわしたヤマトタケルには、見むきもしなかった。

かりに、ヤマトタケルの物語が、神宮の宗教的な価値をうたいあげているのだとしたら。その場合は、神宮側の記録にも、なんらかの言及がありそうなものである。皇子の伝承を、ことごとしくとりあげてしかるべきところだろう。だが、9世紀初頭の神宮は、皇子の伝説を黙殺したのである。