なぜ『皇太神宮儀式帳』に収録されなかったのか

『日本書紀』の研究で知られる横田健一が、興味深い指摘をのこしている。いわく、伊勢神宮には神宮独自の伝承があった。『皇太神宮儀式帳』も、もっぱらそれらにのっとり、まとめられている。記紀は、参照されていない。だから、ヤマトタケルの話も収録されなかったのではないか、と。

ヤマトタケルのクマソ征伐。「少年日本史」(編:学齢館) より。国立国会図書館デジタルコレクション

以下に、横田の言葉を、直接ひいておく。それぞれ、かみしめるべき重要な指摘だと考える。

「伊勢神宮自体の独自の所伝の中には、ヤマトタケルに関する伝承を持っていなかったのではないだろうか」(「『皇太神宮儀式帳』と『日本書紀』」『日本書紀研究 第十一冊』 1979年)

「『延暦儀式帳』は、これら『記』『紀』の史料となった諸氏族伝承のもつヤマトタケル説話と、それに含まれる倭姫(ヤマトヒメ)命説話には、没交渉であったように思われる」(同前)

文中の『延暦儀式帳』は、『皇太神宮儀式帳』をふくんでいる。同じ804年にあまれた『止由気(とゆけ)宮儀式帳』とあわせ、そう通称されてきた。前者は内宮の記録だが、後者は外宮のそれをさしている。

神宮そのものには、ヤマトタケルの説話がつたわっていなかった。記紀のデータとなった伝承とは、ちがう話が、語りつがれている。そして、『皇太神宮儀式帳』は、記紀やその素材と無関係にととのえられた。神宮じたいの伝承にしたがい、ヤマトタケルは登場しない一巻として、しあげられている。横田は、以上のような仮説を提示したのである。

かつて、直木孝次郎はヤマトタケルの女装伝説を、伊勢神宮の霊験譚であると主張した。斎宮からてわたされた衣裳を身にまとい、クマソをうちほろぼす。この『古事記』がおさめる物語は、神宮の神威を知らせるために書かれている、と。そこには、神宮関係者の脚色さえおよんでいただろうとも、のべそえて。

この直木説を、横田は批判していない。だが、ふたりの論旨は、たがいにそっぽをむいている。かたほうは、神宮が『古事記』のヤマトタケル像を、神宮むきにねじまげたと言う。そして、もういっぽうは、神宮にヤマトタケルの伝承など存在しないと、考えた。

私は横田の言っていることに、共感をいだく。もともと、伊勢神宮はヤマトタケルにさしたる関心を、よせてこなかった。『皇太神宮儀式帳』の記述からそうおしはかる横田説は、筋がとおっていると判断する。

直木説にくみする人びとは、横田見解への対応を考えねばならなくなった。ならなくなったはずだと、私は思う。だが、今にいたるまで、それらしい応答を彼らはしめしていない。直木じしん、横田の見解があらわされたその後になっても、こう書いている。1990年の発言である。

「熊曽(クマソ)を倒すための重要な手段となる女装の衣裳を、伊勢神宮の神聖な女性から得たという伝承は、伊勢神宮の関与によって生れたと考えられる。この説話によって、伊勢神宮の神威の高いことが語られているのである」(「日本武尊伝説の成立」『直木孝次郎 古代を語る 3』 2008年)

あいかわらず、神宮の霊験譚という読みで、おしきっている。神宮側の人たちが、ヤマトタケルの女装伝説に、そういう色づけをもちんだ。この見取図をたもっている。

さきほどものべたが、横田は直木を、直接標的にしていない。直木批判の想いもこめていたのだろうと、おしはかれる文章を書いてはいる。しかし、そう明示はしなかった。ヤマトタケルの解釈をめぐる応酬に、参入するつもりはなかったのだろう。直木説側の人びとも、反論をせまられているとは、考えなかったのかもしれない。