『倭姫命世記』と『日本書紀』の記述の関係性
さて、伊勢神宮には『倭姫命(ヤマトヒメノミコト)』世記』という文献もある。ヤマトヒメの事跡をとおして、神道の教義をくりひろげようとした一巻である。書かれたのは、768年だという体裁になっている。じっさいには、鎌倉時代の初期から中期、13世紀前半の著作であるという。
『皇太神宮儀式帳』の場合とちがい、ここにはヤマトタケルが顔をだす。ヤマトヒメとヤマトタケルのやりとりも、えがかれている。9世紀には、記紀のヤマトタケル伝説をうけいれなかった。そんな神宮も、13世紀にはこれを受容したということか。
ただし、『倭姫命世記』はヤマトタケルのことを「日本武尊」とあらわした。この表記は『日本書紀』のそれにしたがっている。「倭建命」と書いた『古事記』には、ならっていない。また、物語の展開じたいも、基本的には『日本書紀』の筋立てを、なぞっている。女装に関しては、神威などにおわせもしなかった『日本書紀』を、踏襲したのである。
東征へおもむく前に、ヤマトタケルは伊勢神宮へたちよった。そして、叔母のヤマトヒメから草薙剣(クサナギノツルギ)を、さずかっている。その場面を『倭姫命世記』は、こうえがく。
「倭姫命、草薙剣ヲ取り、日本武尊ニ授けて宣たまはく、『慎(ツツシ)メ、莫怠(ナヲコタリ)ソ』と」(『日本思想大系 19』 1977年)
これにあたるところを、こんどは『日本書紀』からひいておく。両者を読みくらべてほしい。『倭姫命世記』が『日本書紀』の記述を、ほぼそのままとりいれたことは、あきらかである。
「倭姫命、草薙剣を取(と)りて、日本武尊に授(さづ)けて曰(のたま)はく、『慎め、な怠りそ』とのたまふ」(岩波文庫 1994年)
『倭姫命世記』のヤマトタケルは、その後駿河で火攻めをしかけられた。ここも『日本書紀』と同じ設定になっている。ちなみに、『古事記』はその場所を相模にもうけていた。
この攻撃からヤマトタケルをまもったのは、草薙剣である。剣はヤマトタケルの手元から勝手にぬけだし、あたりの草をきりはらった。それで火の勢いを弱め、持ち主に急場をしのがせている。このくだりは、『日本書紀』に引用されたある一書を、下じきとしていた。