保元の乱(1156年)-後白河天皇 VS 崇徳上皇

天皇方にはせ参じたのは、平清盛、源義朝(よしとも)、源義康(よしやす)、源頼政(よりまさ)ら源平の主流派である。

清盛は鳥羽上皇の近臣で当時随一の武力・財力を誇る平氏の棟梁。義朝は武家源氏の嫡流、源義康は足利氏の祖、頼政は源頼光(よりみつ)を始祖にもつ摂津源氏の名将である。

皇室や摂関家の後継者争いに端を発する保元の乱では、親兄弟が互いに争った。この戦いは武士の台頭のきっかけとなるが、源氏と平氏で恩賞に格差があり、平治の乱の遠因となる。(図:『歴史と人物7 面白すぎる!鎌倉・室町』より)

皇室や摂関家の後継者争いに端を発する保元の乱では、親兄弟が互いに争った。この戦いは武士の台頭のきっかけとなるが、源氏と平氏で恩賞に格差があり、平治の乱の遠因となる。

一方、崇徳方は義朝の父・為義(ためよし)と息子たち、清盛の叔父・忠正(ただまさ)など長年上皇や摂関家に仕えた人々で、兵力も天皇方よりはるかに劣っていた。

合戦は天皇方の夜襲で幕を開ける。

7月11日未明、内裏・高松殿を出陣した清盛、義朝、義康の主力部隊が白河殿を急襲。強弓の使い手である上皇方の鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも。義朝の弟)に苦戦を強いられたが、やがて義朝勢が白河殿に火をかけ天皇方が勝利する。

頼長は流れ矢に当たって戦死。崇徳は讃岐(さぬき=香川県)に配流され、為義や忠正は処刑された。

恩賞は平氏に手厚く、清盛が国守の最高ランクである播磨守(はりまのかみ)となったのをはじめ、一門の多くが高位高官を得た。一方、源義朝も武士の名誉である左馬頭(さまのかみ)となり内裏(だいり)の昇殿を許されたが、平氏に比べて恩賞は少なかった。