武士が実力を自覚する契機に

延暦寺の座主・慈円(じえん)は歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』で保元の乱を「武者の世の始まり」と評した。事実、この乱は皇位継承という国家の重大事を武力で解決したことで、朝廷のガードマンに過ぎなかった武士が実力を自覚する契機になったといわれる。

源氏軍に襲われた信西は山中に逃れ自害するが、源氏軍によって遺体を掘り起こされ首は晒された。画像は信西の首を晒す源氏軍(「平治物語絵巻」(模本)より。東京国立博物館所蔵/ ColBase

武士の世を切り開いたのが平治の乱で勝利した平清盛であった。

乱後、武士で初めて公卿となり、わずか7年で最高官である太政大臣に栄進。仁安(にんあん)3年(1168)に出家したのちも政界の黒幕として君臨し、一門も高位高官を占めた。

さらに、娘の徳子(とくこ)を高倉天皇(後白河法皇の子)に入内させ天皇家と姻戚関係を結び、摂津福原(神戸市)を拠点に日宋貿易を展開して巨万の富を蓄積し、平氏の栄華を現出する。

権勢の高まりに伴い法皇との対立も激化し、治承(じしょう)3年(1179)、大軍を率いて福原から上洛した清盛は法皇を幽閉し、関白以下、公卿39人を解官。翌年、徳子が生んだ3歳の安徳(あんとく)天皇を即位させて実権を掌握し、初の武家政権である平氏政権を樹立する。

しかし、強引な政権掌握は人々の反発を招き、源氏の蜂起と全国的な内乱を誘発。平氏は権勢の頂点を迎えるとともに、没落への一歩を踏み出したのである。

※本稿は、『歴史と人物7 面白すぎる!鎌倉・室町』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。


『歴史と人物7 面白すぎる! 鎌倉・室町』(中央公論新社編・刊)

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