反信西連合形成と藤原信頼・源義朝の挙兵

源氏が没落し平氏の全盛時代が幕を開ける乱後、後白河が二条(にじょう)天皇に譲位して後白河院政が始まる。

上皇の近臣・信西(しんぜい)が平氏と結んで実権を握ったが、間もなく後白河の寵臣・藤原信頼(のぶより)と対立。保元の乱の恩賞に不満をもつ義朝と、二条天皇の側近公卿も信頼に同調し反信西連合が形成される。

そして平治元年(1159)12月、清盛が熊野詣のため京を留守にした隙をついて信頼・義朝が挙兵。院御所を焼き討ちして天皇と上皇を幽閉し朝廷の実権を握った。

熊野への途上、京の異変を知った清盛は、いったん九州に落ちることも検討したが、紀州の在地勢力の助けを借りて京に帰り着く。

そして、信頼に臣従するふりをして油断させたうえで、内裏の公卿と密かに連絡をとって25日、二条天皇を救出。平氏の拠点・六波羅(ろくはら)に迎えると、関白・藤原基実(もとざね)以下、公卿たちも続々と参集した。

保元の乱後、権力者となった信西に冷遇される義朝は、藤原信頼に接近。信西に反感を持つ貴族を取り込み挙兵する(図:『歴史と人物7 面白すぎる!鎌倉・室町』より)

一方、天皇を奪われた義朝は信頼の失策をなじり「日本一の不覚人=まぬけ」と罵倒したが後の祭りであった。義朝に残された道は、平氏を破り源氏の武威を示すほかになかった。