「保元平治合戦図屛風」に描かれた白河殿夜討ちの様子。天皇方の平清盛や源義朝の軍が白河殿に夜襲をかけるが、弓の達人・源為朝によって次々と射殺されてしまう。メトロポリタン美術館所蔵
22年1月からNHKで放送中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。平安末から鎌倉前期を舞台に、小栗旬さん演じる北条義時、大泉洋さん演じる源頼朝ら、権力の座を巡る男たち女たちの駆け引きが三谷幸喜さんの脚本で巧みに描かれて人気を博している。本連載では源平の争いから鎌倉幕府誕生まで、その行方を左右した「合戦」を中心に、歴史をひも解いていく。第一回となる今回は、武士の世を切り開き、平家一門の栄華を築いた平清盛が台頭するきっかけとなった保元・平治の乱について。

きっかけは天皇家と摂関家の内部抗争

保元の乱は皇位継承問題をきっかけに、源平の武士が一族を二分して争った合戦である。

発端は治天の君(ちてんのきみ。院政を行う上皇)である鳥羽上皇(とばじょうこう)と子の崇徳(すとく)天皇の確執にあった。

鳥羽は崇徳が、祖父の白河法皇と自身の皇后・待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)の間に生まれた不義の子であると信じて疎んでいたという。そこで鳥羽は崇徳を無理やり譲位させ、寵愛する美福門院得子(びふくもんいんとくし)が生んだ近衛(このえ)天皇を即位させた。

その近衛が17歳で崩御すると、わが子重仁(しげひと)の即位を望む崇徳の意向を無視して同母弟の後白河(ごしらかわ)天皇を即位させ、崇徳を皇統から排除したのである。

この頃、摂関家でも関白・藤原忠通(ふじわらのただみち)と弟の頼長(よりなが)が摂関の座をめぐって対立していた。父・忠実(ただざね)は寵愛する頼長を支援したが、頼長は近衛天皇を呪詛したという噂を立てられて失脚したのだ。

天皇家・摂関家の双方で確執が深まる中、保元元年(1156)7月、鳥羽法皇が崩御すると、崇徳は頼長と結んで京の北郊・白河殿で挙兵。天皇方も武士を招集し保元の乱が幕を開ける。