《恥ずかしい忙しさ》の日々
当時はガムシャラに働くよりも優雅な趣味をもちながら、ゆったり働くほうがカッコイイと思われていた時代。特にフリーランスは、そういう人のほうが多く、彼女も趣味の旅行や料理に時間を割いていたのです。
でも私は、実家から「恥ずかしいから戻ってくるな」と言われた離婚ホヤホヤの頃。そのせいか、文章を書くわけではなく、取材をしただけの私のクレジット(名前)も載せてくれる雑誌ばかりを選んで書いていました。「ほら、私はこんなにがんばっている」「決して惨めなわけじゃない」と、誰あろう、母親にアピールしていたのかもしれません。
既に師匠の元で放送作家の見習いもしていましたから、出版社で徹夜をしても、午前から別の女性誌でレストラン取材(飲食店の取材はランチ前とランチ後にしか入らせてもらえなかったからです)。カメラマンさんが外観や内観、料理写真を撮っている間に、レストランの外壁に《テレ原》(=テレビ原稿。上3分の1程が空欄になっている専用のものです)を這わせてナレーション原稿を書き、お店の方に頼み込んでテレビ局にFAXを送らせてもらう。午後はまた取材に出たり、雑誌の原稿を書いたりして、合間にテレビ局の会議やラジオ局での打ち合わせに出る…という日々だったのです。
まさに《恥ずかしい忙しさ》。わかってはいましたが、止まってしまったり、振り返ったりするほうが怖かった。そんな日々でした。
「御礼状も書けない忙しさは、恥ずかしい忙しさ」。今は前半も刺さりますし、沁みます。
以前、『婦人公論』本誌で糸井重里さんがホストを務めていらした鼎談で「ラジオ」が取り上げられたとき、永六輔さんと共に呼んでいただき、それが『続々と経験を盗め』という単行本になったことに心から感謝。
また《筆まめ》と言われるよう、今週末はレターセットでも買いに行こうと思います。