なぜ「おっそろしい先生」はほぼ絶滅したのか
というわけで、先生の見つけ方であります。
まず、安心していただきたいのは、おっそろしい先生というのは、現代ではほぼ絶滅したらしいという事実である。
原因は単純で、経済の論理というやつだ。
昔は女の子といえば猫もしゃくしもピアノを習っていた。つまりピアノの先生のもとへはいくらでも生徒が集まってきた。だが今や世の中は多様化し、ピアノは数ある習い事の一つ。しかも子供の数そのものが減っている。
かくして、ピアノの習い手といえば、私のような「人生に先の見えた中高年」が主流となりつつある。そんな中でガミガミとレッスンなどしていたら生徒なんて一人も集まりませんというのが先生方の共通した証言である。
ということで、先生は怖くありません。大丈夫です。なので躊躇することはない。まずはネットで検索するなどして手近な教室の門を叩き、体験レッスンなど受けてみることをお勧めしたい。
で、肝心なのはここからだ。
恐怖体験を抱えた我らは、どうしても「先生が怖いか怖くないか」に着目してしまうのだが、もちろん、それ以上に大事なことがある。その先生がどんな教え方をするのかということだ。
昔はそんなこと気にする必要はなかった。なぜって、先生はみなほぼ同じ教え方をしたのだから。ピアノを習うといえば、バイエルから始まって、ブルグミュラー、ツェルニーなど、いわゆる「教則本」というものがあり、それを順番通りに進めていくのが当たり前だった。なので、私は子供のころ親の仕事の都合で度々引越しをしてその度に先生を替えたが、それでも何の支障もなかったのである。先生は替われど、教える内容はほとんど変わらなかったのだから。
だが今では、こうした状況は変わりつつある。先生によって考えかたも曲の選び方も様々。昔ながらの練習曲をやる先生もいれば、そうじゃない先生もいる。
つまりはですね、これからは自分に合った先生を自分で探す時代なのだ。探せばきっと見つかる。でもそれは逆に、自分はなぜピアノを習いたいのか、どんなふうにピアノと向き合っていきたいのか、つまりは「なぜ自分はピアノを弾くのか」という哲学を問われているとも言える。それがわからないと、どんな先生が自分に合っているかもわからない。
そう考えると、よい時代でもあるけれど、ある意味キビシイ時代になったのかもしれませんな。