落語家になったのは、まず人を笑かすことに目覚めた、ということがありまして。僕の場合、悲惨な生い立ちが笑いの原点かなと思うんですね。

11歳の時、母が蒸発してしまいまして。父がギャンブル狂いで、今に換算すると1億くらいの借金を作り、愛想をつかしたというのが母の言い分です。でもそんな殺生な話、あります? そんなら僕も連れてってくれたらよかったのにと思うんですよ。それでもまだ父がいるからと気丈に振る舞ってたんですが、生き地獄のような毎日が待ち受けてました。

母・菊元政子さんと。2~3歳ごろ

当時、暮らしていた大阪市住吉区の市営住宅には、怖い顔したパンチパーマのおじさんが2人の子分を連れて連日のようにやってくるわけです。追い込みをかけられた父はノイローゼ状態だったんでしょう。ある晩、ただならぬ気配に目覚めたら、父が僕に出刃包丁を向けて立ってた。咄嗟に「死にとうない!」と叫んだら我に返ってくれましたけど。冗談になりませんよ。さらに笑えないことに、そのあと父も姿をくらましてしまうんです。僕にしてみたら「うっそー」ってなもんで、無責任やと恨みましたわ。

 

近所の人たちが起こしてくれた奇跡に支えられ

それに比べて借金取りの責任感の強さと言ったら半端じゃない。なにしろ無欠席で我が家に来ては「オヤジはどこや!」と喚き散らすんですから。怖いのなんのって。けど窓ガラス割って威嚇されても、肩を揺さぶられても知らんもんはは知らん。ガスも電気も止められ、夜は怖いわ、ひもじいわで「オッチャン、おとん一緒にさがしてくれへん?」と言いたいくらいだったんです。

それでもグレなかったのは奇跡やと思います。奇跡を起こしてくれたのは近所の人たち。

僕の置かれた境遇を察知したんでしょう。ご飯を届けてくれるオバちゃんとか、何かと気にかけてくれるオジサンがいて、今更ながら感謝の気持ちでいっぱいです。

3~4歳ごろ。ひとりっ子だったせいもあり、かなり甘やかされて育てられた。やんちゃで団体活動が苦手だったらしく、ブランコには並ばないし、友達のお弁当に入っていた「きゅうりのキューちゃん」を勝手に食べるという始末。 先生が困って、「キューちゃんくらい買ってあげてください!」と母親を叱っていた