寄席デビューの苦い思い出
定時制の高校に進学し、昼間は帽子工場で働きながら落語を覚えて練習したり、枝雀師匠の寄席へ出かけたり。ちょいちょい楽屋に顔を出して「諦めてませんよアピール」もしてました。晴れて弟子入りが許されたのは16歳と11ヵ月の時。「ほな、住み込みで」と言っていただいた時の喜びを僕は一生忘れることはないでしょう。
寄席の舞台に初めてあがった時は緊張してしまって。500人くらいのお客さんを前に前座を務めさせてもろうたんですけど、頭が真っ白になってセリフが飛んでしまったんです。僕がウッと詰まったらお客さんもウッと息をひそめ、ざわつき始めて……。
どうしようもなくなり、大声で「忘れてしまいました! ほな、サイナラ」と言って袖に逃げ込んたら、ちょっとの間のあと、ドッカーン! と笑いの波が起こった。
前座が急に終わったもんですから、師匠は慌てて羽織を着ながら舞台に登場して「すんません、まぁ悪気があったわけやないんで、末永く応援してやってください」とフォローしてくれはって。でも叱られることはありませんでした。稽古は厳しかったんですけど、優しいお人柄で。僕は約20年に渡り可愛がっていただきました。師匠であるというだけでなく、親のような存在だったんです。
ある日、寄席に母親が現れて
一方、ホンマの親はといえば、父は僕が27歳の時に死んだという知らせを受けて、葬儀場でご遺体と再会しました。母のほうはといいますと、僕が落語家になったことをテレビで知ったらしく、寄席に来るようになったんです。最初はひっそりと。だんだん大胆に。僕は舞台の上から「もしや、あの中年女性は母親なのではないか」と感じでましたが、「違う違う」とその思いを払ってました。「瞼の母」は楚々とした女性なのに、ド派手な服を着たガサツなオバハンが母だとは信じたくなかった。ところがそのオバハンは、前回は後方席にいたのに、今回は真ん中でガハガハ笑ってる。今日は最前列か! 次はもう舞台に上がって来るんやないかという勢いで恐ろしくなり(笑)。母親だなと確信したんです。