寄席デビューの苦い思い出

定時制の高校に進学し、昼間は帽子工場で働きながら落語を覚えて練習したり、枝雀師匠の寄席へ出かけたり。ちょいちょい楽屋に顔を出して「諦めてませんよアピール」もしてました。晴れて弟子入りが許されたのは16歳と11ヵ月の時。「ほな、住み込みで」と言っていただいた時の喜びを僕は一生忘れることはないでしょう。

16歳内弟子時代。手前にあるパンフレットに初代、桂春団治師匠の写真が。ちょうど同じような帽子が枝雀宅にあり、「おもろい! おまえさんもこの帽子かぶって同じような顔せい!」と珍しくはしゃぐ師匠にのせられて真似てみる。面白がる桂枝雀さんがパチリ! 枝雀師匠撮影の貴重な1枚

寄席の舞台に初めてあがった時は緊張してしまって。500人くらいのお客さんを前に前座を務めさせてもろうたんですけど、頭が真っ白になってセリフが飛んでしまったんです。僕がウッと詰まったらお客さんもウッと息をひそめ、ざわつき始めて……。

どうしようもなくなり、大声で「忘れてしまいました! ほな、サイナラ」と言って袖に逃げ込んたら、ちょっとの間のあと、ドッカーン! と笑いの波が起こった。

前座が急に終わったもんですから、師匠は慌てて羽織を着ながら舞台に登場して「すんません、まぁ悪気があったわけやないんで、末永く応援してやってください」とフォローしてくれはって。でも叱られることはありませんでした。稽古は厳しかったんですけど、優しいお人柄で。僕は約20年に渡り可愛がっていただきました。師匠であるというだけでなく、親のような存在だったんです。

17歳の修業時代。師匠、桂枝雀が愛用していた作務衣のお古を着て。ハンチング帽に作務衣に赤い靴下。昭和の小僧さん風に決めて撮影。なにしろ内弟子は忙しい。家の細々とした家事手伝いに高座の準備に片付け、合間に稽古…いやはや頑張った若かりし時代です

 

ある日、寄席に母親が現れて

一方、ホンマの親はといえば、父は僕が27歳の時に死んだという知らせを受けて、葬儀場でご遺体と再会しました。母のほうはといいますと、僕が落語家になったことをテレビで知ったらしく、寄席に来るようになったんです。最初はひっそりと。だんだん大胆に。僕は舞台の上から「もしや、あの中年女性は母親なのではないか」と感じでましたが、「違う違う」とその思いを払ってました。「瞼の母」は楚々とした女性なのに、ド派手な服を着たガサツなオバハンが母だとは信じたくなかった。ところがそのオバハンは、前回は後方席にいたのに、今回は真ん中でガハガハ笑ってる。今日は最前列か! 次はもう舞台に上がって来るんやないかという勢いで恐ろしくなり(笑)。母親だなと確信したんです。