父親が立ち向かったのが、オウム真理教事件だったら

さて令和の時代にこの小説を読んだ中年以上の読者の多くは、信之の息子乙彦が関わった事件を1995年に起きたオウム真理教事件に置き換えたのではないだろうか。事件に関わった信者の家族に対する社会的な制裁は、おそらく連合赤軍事件の比ではなかっただろう。

また加害者は単数ではあったが、ネット社会を迎えた今、秋葉原無差別殺傷事件、相模原障害者施設殺傷事件等々、本人ではなく、その家族に対するバッシングは、報道されないだけで、すさまじいものがあるだろう。鬼童子信之の精神力を持ってしても、彼の主義を貫くことは難しいのではないか。

主人公の戦った前近代的な家族主義は、実は単に家族や親子関係に留まらない。連合赤軍事件の全貌が明らかにされてほどなく、パレスチナ解放人民戦線によるテルアビブ空港乱射事件が起きる。このとき実行犯が日本人であったことから、日本政府がイスラエル政府に公式に謝罪している。

成人した子の犯罪について、世間は家族を糾弾し、親が世間に対して謝罪し、責任を取って職を辞し、ときには命を絶つ。それを国際社会に広げ、自国民が個人としての自由意志で参加した他国の組織(パレスチナ解放人民戦線)で、たまたま実行犯となった(鉄砲玉の扱い)犯罪について、日本という国家がパレスチナ解放人民戦線に対する非難声明を出すかわりに、イスラエルに謝罪する。それが適切であったのかどうか。

子、親、家、国家。ここで円地が取り上げたテーマは、鬼童子の家庭と世間を超えて、意外に大きな問題に直結していたような気がする。