年とともに旨くなるフキノトウのように
年をとるというのは、自分にたどりつくこと。知り合いの歌人がそう言っていた。見栄や理想から離れ、自らの限界と可能性を見極め、ありのままの自分を受け入れていくのには時間がかかる。しかし自分を受け入れていけば、周囲の人々や現実も静かに受け入れることができ、自分を失わずに楽しめるようになる。
幸田文は、そんな素敵な年の重ね方を示した先達だ。本書は幸田文の全集から、タイトルにもある「老いの身じたく」になるような随筆が選ばれている。幸田文の文章は「おいしい」。若いころ気づけなかったフキノトウや煮魚のおいしさが年々わかってくるように、幸田文の文章は読むほどに味わいがあって新鮮、美味なのだ。
幸田文の研究をしている私の先輩が言うには、この人の文は「ときどき口語っぽい表現がでてくる」「見たこともないオノマトペがでてくる」「文法的におかしい文もたまにある」にもかかわらず、まったく違和感なく読ませるという。
ルールを破ったような文だったから長らく文壇的には評価されてこなかった作家だが、その「おいしさ」に気づいていた人は多いのではないか。彼女自身の魅力もまた、フキノトウ。
「毎年、寒のさなかというと、きまって私は春の気配を捜して、きょろきょろした気持ちになる。」(「春うごく」)の「きょろきょろした気持ち」。藤の花の見頃にちょうど来合わせたものの、「だがそれが、惜しいとも惜しかった。さかりを過ぎていた。いえ、今年の花は、今が申し分なく盛りなのである。」(「藤」)の「いえ」(「いや」とか「が」ではなく)。
たしかにあっさりとすごい技術が入っていて、それが冬場にすする蕎麦に一片だけ入った柚子のように文全体に効いていて、おいしい。老いを実感したとき、あるいは実感する前に、一口どうぞ。