秀衡の急死と義経の自害

義経と奥州藤原氏の接近は、頼朝にとって新たな懸念材料であるとともに、奥州進出の好機でもあった。

砂金や駿馬の産地である奥羽の権益の獲得は、前九年合戦を起こした源頼義(よりよし)以来の源氏の悲願であった。その一方で、鎌倉の頼朝にとって、関東の背後を脅かす奥州藤原氏の存在は、上洛を妨げる最大の障害にもなっていた。

そのため、頼朝は平氏滅亡と義経の没落により当面の脅威がなくなった文治二年頃から、藤原氏への圧迫を強めていた。代々、奥州藤原氏が行ってきた朝廷への馬と砂金の貢納を幕府経由で行うよう命じ、東大寺の大仏再建事業のため3万両の砂金の供出を求めたのだ。

一方、義経にとって不運だったのは、文治三年(1187)十月、秀衡が急死したことである。

この時、秀衡は義経を主君として仕えるよう嫡子泰衡(やすひら)と長子国衡(くにひら)に遺言し、兄弟は義経とともに頼朝を攻撃する策略を練ったという。

秀衡の死後、頼朝は藤原氏への圧力を強め、朝廷を通じてたびたび泰衡に義経の逮捕を命じた。

泰衡は、当初、父の遺言を順守する態度を示したが、次第に頼朝の圧力に耐えきれなくなり、文治五年(1189)閏四月、数百騎の軍勢で義経の居館である衣河館(ころもがわのたち)を襲撃し自害に追い込む。義経を犠牲にすることで奥羽の平和が守れると考えたのだろう。

しかし、頼朝は義経をかくまったという理由により、なおも泰衡追討の宣旨(せんじ)を朝廷に求めたのである。

奥州藤原氏と協調関係を保ってきた後白河法皇はこれを拒んだが、頼朝は宣旨のないまま全国の武士を動員し、文治五年(1189)七月、28万4000騎と称する大軍で奥羽へ攻め込んだ。

平泉の先手堂にある義経公妻子の墓。岩手県西磐井郡平泉町。(写真提供:PhotoAC)