歴史はこう動いた!

奥州合戦は頼朝の幕府草創の総決算であった。最大の意義は全国的な軍事動員によって、戦時体制の中で築いた御家人との主従関係を、改めて確認する機会になったことだ。

清衡・基衡・秀衡の亡骸を納めた中尊寺金色堂。泰衡の首も厨川柵でさらされた後、金色堂に納められた。写真は金色堂覆堂(写真提供:PhotoAC)

内乱期に敵対した武士も御家人に加えられ、遠征への参加を拒否した武士には懲罰を与えた。彼らは奥州合戦への参加と論功行賞を通して、幕府の基盤である「御恩と奉公」の体系に組み込まれていったのである。

翌年、頼朝は伊豆に配流されて以来、30年ぶりに上洛を果たす。

後白河法皇から日本国惣追捕使(そうついぶし)・惣地頭(そうじとう)の地位を確認され、日本の軍事・警察権を担う鎌倉殿の役割が明確にされた。2年後の建久三年(1192)には征夷大将軍に就任。以後、この官職が武家政権の首長の称号として室町・江戸幕府まで受け継がれる。

晩年の頼朝は、長女・大姫(おおひめ)を後鳥羽天皇のもとに入内(じゅだい)させる計画を進めた。しかし、実現しないまま大姫は早世し、間もなく頼朝も謎の死を遂げる。

落馬がもとで亡くなったとされるが、『吾妻鏡(あずまかがみ)』に当該期の記事が欠落しており詳しい状況はわからない。

嫡男・頼家が跡を継いだが、北条氏をはじめ有力御家人たちの勢力争いが激化し、将軍の権力は弱体化していく。

※本稿は、『歴史と人物7 面白すぎる!鎌倉・室町』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。


『歴史と人物7 面白すぎる! 鎌倉・室町』(中央公論新社編・刊)

保元、平治の乱から応仁・文明の乱までの15大合戦と、「男と女」「復讐」「武士の生活」などの9つのキーワードで、鎌倉・室町の実像を生き生きと描く。単に合戦の経緯を解説するだけでなく、合戦が起こった時代背景や原因、対立した人物や一族郎党の相関図、合戦の結末がどう政治情勢や時代の動きに影響を与えたのかを、多角的に解説する。また、テーマ解説では、最新の中世研究を抽出し、リアルな中世像を展開する。