奥州合戦最大の激戦!阿津賀志山の戦い

幕府軍は頼朝の大手軍と東海道軍、北陸道軍の三手に分けて奥羽に侵攻した。

頼朝率いる大手軍は白河関を越えて奥州に侵攻し奥大道(おくだいどう)を北に進んだ。

図:奥州合戦で鎌倉軍はどう進んだか(『歴史と人物7面白すぎる!鎌倉・室町』より

8月8〜10日、奥州合戦最大の激戦となった阿津賀志山(あつかしやま。福島県国見町)の戦いが繰り広げられた。奥州軍は総大将の藤原国衡以下、2万騎の大軍を配置し、数キロメートルも続く大規模な二重堀を築いて阿武隈(あぶくま)川の水を引き入れ、柵を設けて幕府の主力を迎え撃った。

激戦は3日に及んだが、畠山重忠隊の工兵が土石を運んで堀を埋め、結城朝光(ゆうきともみつ)らが敵の背後へ奇襲をかけて防塁を突破し国衡を討ち取った。

その後、大手軍は多賀国府で千葉常胤(ちばつねたね)率いる東海道軍と合流し、8月22日、平泉に到達したが、すでに泰衡は政庁である平泉館に火をかけて逃亡した後であった。

幕府軍は泰衡を追ってさらに北上し、志波郡陣岡(しわぐんじんがおか)で出羽から北上してきた比企能員(ひきよしかず)の北陸道軍と合流。そこへ奥州藤原氏譜代の家臣である河田次郎の裏切りによって討ち取られた泰衡の首が届けられた。

頼朝は首実検を行ったのち、さらに軍勢を率いて北上し、9月18日、厨川(くりやがわ)の柵で終戦宣言を行った。その後、一カ月かけて鎌倉に帰還し、三カ月に及ぶ奥州合戦は幕を閉じる。