私は栄養不足にならないために絵を描く
旧石器時代から不思議な能力を持つ者とされてきたこうした絵師たちは、その後も人間社会においてさまざまな場面でその技術を発揮した。
陶器に神話や風俗を記録したり、権力者の力を誇示する建造物に煌びやかな装飾画を描いたり、さらに布教の一環で教会や祭壇を彩るときも、絵師たちは民衆を統括するのに欠かせない特殊技術者として長いあいだ重用され続けてきた。
ところが、いつの間にか、特に産業革命以降、画期的な経済生産性を持たない絵描きは、浮世離れした存在として扱われるようになっていく。
中学生のころ、進路指導の先生に、将来は画家になるつもりだと告げたところ、「飢え死にしたいのか」と笑われたことがあった。母が私を単独で1ヵ月の欧州の旅に出したのは、その直後のことだ。
貧乏しても絵を志したいのかどうか、欧州の美術館を巡ることで私に自覚をさせようという彼女の企てだった。
私はその後イタリアの美術学校に入り、進路指導の先生の予言通り困窮のどん底を這いずり回るような生活を経験したが、当時は生理的な空腹よりもメンタルの空腹を満たすことしか頭になかった。
貧困は辛かったが、同じような境遇の絵描きや音楽家や作家たちと触発しあい、絵を描くことで、お金では得られない栄養素だけはたくさん吸収することができたと思っている。つまり、アルタミラの洞窟で明日の糧を望んで絵を描いていた絵師たちと、表現への動機はそれほどかけ離れていない。
「絵も、そしてその他の芸術も、人間の精神には欠かせないごはんです。私は栄養不足にならないために絵を描くのです」
冒頭の子どもの質問への私の返事は、このように締めくくった。