そして、忘れてはならないのは、母・和泉節子だ。岐阜県から父の元に嫁ぎ、母として子ども3人を育てた。嫁として義父の晩年は6年間毎日病院に通い、その4年後に夫の和泉元秀が57歳で急逝すると、数多の騒動の矢面に立ち、和泉流宗家・宗家会理事長としての職務を全うすべく全力を尽くして一家を支えてくれた。現在でもそうである。

「虎は死して皮残す、人間死して名を残す」「今が命、忘るるなかれ!」学生時代に幾度となく言われた言葉。それは、紛れもない母からのエールだったと思う。

しかし、19世宗家であった父亡き後は、順風満帆という事ばかりでは無く、むしろ逆境の中を歩んできた。世の中の潮流は、女性の活躍を応援し受け入れているようにみえたが、なお存在するガラスの天井にぶち当たった。また、我が家をめぐるさまざまな問題がワイドショーの話題となって、追いかけられた。
真っ直ぐな道を歩む事の難しさを痛い程味わった。でも、その経験があったからこそ私も私なりに強くなれたと、今では思うことができる。

そして今では、私も2人の子どもの母である。長女慶子は女性狂言師の後を継ぎ、14歳の長男和秀には和泉流宗家筆頭控え家の長男として、和泉流宗家を守り継承して頑張ってもらいたい。

私の「母親と狂言師の二足の草鞋」は、これもまた真っ直ぐなんてとんでもない。山あり谷ありの連続だった。産前は2週間前まで舞台に立ち続けた。装束は臨月のお腹も包み込み、正面から見れば何ら変化はない。下腹に力を入れてセリフを言えば、お腹の子もそれはそれは元気にお腹を蹴った。私は、この子達は絶対一緒に演じている、狂言が大好きな申し子が生まれて来ると信じてい疑わなかった。楽屋にも生後2ヵ月から連れて入った。

私が舞台に立っている間は、ベビーシッターか母がお世話をしてくれた。そして、母乳で育てたいと思い頑張った。夫は一般企業のサラリーマンだが、出来る限り協力してくれた。感謝しか無いし、今も感謝し続けている。

「お受験」と世間で言われる幼稚園、小学校受験もさせた。その時の100%での体当たりが私の子育てのモットー。100%とは本物の心、真心だ。そうでなければ、たとえ我が子であっても何も伝わらないと思い、大地を踏み締めているつもりだ。

そんな伝統芸能狂言によって、生かされて生きる女三代。

50年の祝賀として寄せられた母校・日本女子大学長篠原聡子先生の祝いの言葉にも、「繋ぐこころを寿いで」とあるように、いつの時代にも残すべき心があり、かたちが存在する。目に見えないものほど大事なことがたくさんある。そんなひとつひとつを汲み取り、感じ伝え残すことができたら…。

狂言の笑いが世界の架け橋となって平和を生み出し、幸せを実感できる暮らしのお手伝いができるよう、毎日の修業を娘達と共に大切にしていこうと思う。これは、娘である和泉慶子の願いでもある。代を重ねて繋がるこころ。

真の道は天に通じる!

そう信じて、昭和、平成、令和を生きる女三代の真心は未来永劫、狂言の道を突き進んでいく。


●2022年7月24日 北鎌倉狂言の会(於.円覚寺佛日庵本堂)

●2022年9月25日 第3回和秀会 (於.セルリアンタワー能楽堂)

●神田明神eddocco狂言会 (於.文化交流館令和の間) 毎月開催