今注目の書籍を評者が紹介。今回取り上げるのは『ラブカは静かに弓を持つ』(安壇美緒著/集英社)。評者は書評家の東えりかさんです。

たとえその出会いが裏切り行為であっても

一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)が約2年間にわたって職員を「生徒」として潜入させ、ヤマハ音楽教室での著作権使用料に関する調査をさせていたと報道されたのは2019年夏のこと。大きな話題となったのを覚えている読者も多いだろう。本書はこの事件を元にした小説だ。

全日本音楽著作権連盟に勤める橘樹は幼い頃のチェロ歴を認められ、ミカサ音楽教室への潜入調査を命じられる。著作権使用料の支払い義務をめぐり、ミカサ率いる「音楽教室の会」から提訴される際の資料集めが目的だ。

彼は中学1年の時、チェロを断念せざるをえない事件にあっている。その恐怖の記憶が大きなトラウマとなって人間不信に陥り、長年の不眠に悩んでいた。

いやいやながらも東京の二子玉川にある音楽教室に入会して、無断使用が著作権法違反となるポップスを中心に個人レッスンを受け、教室内のやりとりは録音して報告書をあげるという任務に就いた。期間は2年。

講師の浅葉桜太郎は橘よりわずかに年上の20代後半で、ハンガリーの音楽院を卒業している。指導は懇切丁寧で、もともとチェロの音が好きだった橘は上手くなりたいと思うようになった。練習にも身が入り、他の生徒との交流も楽しくなって、発表会にも参加。だが約束の2年が過ぎ、裁判のために何もかも明らかにされる時が近づいてきた。

習い事は多くの人が経験していること。年代を問わず特別なことではない。この平和な景色の中に、サスペンスフルなスパイストーリーが隠されているとは誰も思わないだろう。

音楽家に限らず芸術家やクリエイターの権利は保護されなくてはならない。だがそれで芸術を楽しむ自由を制限されては意味がない。この兼ね合いは難しい。エピローグで本当に橘が弾きたかった曲が明かされる。この人らしいな、と納得できる作品だった。