マスで一括りに捉える社会に対して、一抹の不安を覚え

手元にある漫画雑誌が刊行された昭和30年代といえば、戦争が終わってからまだそれほど時間も経っておらず、世の中には戦災孤児と呼ばれる子どもたちが普通にいた。

社会は復興を掲げてまっしぐらに突き進んでいたが、その傍らでは経済の勢いに弾き飛ばされて苦悩する人々もたくさんいたし、アメリカの影響下で人情という利他性も曖昧なものとなってしまった。そんな世相が反映されていたのだろう。

昨今の漫画やアニメの世界では、主人公がどんなに悲惨な出自であろうと、彼らはひとりきりで自らの孤独を貫くのではなく、同じようなトラウマを持った仲間とグループとなって活躍する。

芸能界においても、ステージ上にひとりきりで立たされるアイドルの時代は終わり、今では大人数のグループが主流となった。

友人からとあるアイドルグループの写真を見せられ、誰が誰だか見分けられないと言うと、「これはグループ全体でひとつの個性なの。支持したい個人はいても、全員でひとつの被写体として見るもの」と説明された。

確かに、人を楽しませる責任も、ひとりで背負わされるよりは、グループで請け負うほうが気は楽になるだろう。運動会ではみんな手をつないで同時にゴール、学芸会ではみんな主人公という、競争意識を生まない“一律平等”が推奨される理由も見えてくる。

島国という地政学的な側面から捉えても、日本人のメンタリティは個性重視よりも、組織単位での調和のほうが優勢ということなのかもしれない。

とはいえ、あらゆるものをマスで一括りに捉える社会に対して一抹の不安を覚えてしまうのは、私が戦後の孤高のヒロインに感情移入してきた世代の人間である証ということなのだろう。