ウクライナやロシアに対する発言に注意しなくてはいけない――。そういう無言のプレッシャーは、今が第二次世界大戦以降で最も強いかもしれません。メディアに登場する人間も市井の人々も、「こういうことを言うと非難されるのではないか」と忖度した物言いしかできない雰囲気があり、憂鬱な気持ちになってくるのです。
僕は今回のウクライナの件で、真っ先にスペイン内戦(1936~39年)を思い出し、類似点をいくつかのメディアに書きました。この内戦は、左派の人民戦線政府とフランコ将軍率いる右派の反乱軍との戦いでしたが、ヘミングウェイなど世界各国の文化人や知識人が、人民戦線の義勇兵として参戦しました。
反ファシズムの人民戦線を応援したのは、ソ連やメキシコ。一方フランコ陣営を支持し参戦したのは、ドイツ、イタリア、ポルトガルなど。内戦とはいえ、代理戦争の色合いが強いものでした。ドイツ軍による無差別爆撃に衝撃を受けたパブロ・ピカソが、大作「ゲルニカ」を描いたことはあまりにも有名です。
最近の戦争は、ほとんどが代理戦争と言っても過言ではありません。金は出す、武器も出す。でも血を流すのはきみたちだ、とでも言うように。アフガニスタンもシリアも然り。今回も実際に戦っているのはロシアとウクライナですが、実際はそれ以外に第三次世界大戦の様相を呈しているような気がする。
考えてみると、第二次世界大戦後も、世界のあちこちで戦争は継続しています。というのも、グローバルな資本主義経済というのはそもそも消費をしないと成り立たないのです。世界の大国は、皮肉な言い方をすると、《持続可能な開発計画》みたいにして、ずっとどこかで戦争をしていると言っていい。
日本もかつて、第一次世界大戦の時には景気が沸き、成金がどんどん生まれました。また、朝鮮戦争による特需のおかげで戦後の経済復興を成し遂げた。よその国の戦争は、甘い蜜になる。それが現代社会の宿命的構造ではないでしょうか。