「ウクライナやロシアに対する発言に注意しなくてはいけない――。そういう無言のプレッシャーは、今が第二次世界大戦以降で最も強いかもしれません」(撮影:大河内禎)
朝鮮半島で終戦を迎えた五木寛之さん。壮絶な引き揚げ体験は、70歳になるまで人に語ることができなかったと言います。終戦から77年の月日が過ぎ、ロシアによるウクライナ侵攻が長期化する今、思うことは──。(構成=篠藤ゆり 撮影=大河内禎)

物言えぬ空気が蔓延する世の中に

また8月15日が近づいてきました。今年はウクライナの問題があるため、なおさら鬱々とした気分になります。国を追われる難民の姿に、昔の自分が重なるのです。その話をする前に、まずは今回の戦争から僕が感じたことを少しお話ししようと思います。

話は日露戦争の時代に飛びますが、当時、日本人はロシア人に対して「露助(ろすけ)」などという蔑称を使っていました。一方、ロシア文学がさかんに翻訳され、文学青年の心を捉えていた時代でもあります。

僕と同じ筑後生まれの詩人・北原白秋には、青年時代、無二の文学仲間がいました。本名は中島鎮夫(しずお)、ペンネームは白雨(はくう)。彼はツルゲーネフなどの作品を原文で読みたいと、独学でロシア語を学んでいたそうです。

ところが日露戦争の前で「ロシア討つべし」という空気が充満するなか、中島青年は「あいつは露探(ろたん)〈ロシアのスパイ〉に違いない」と濡れ衣を着せられます。そのプレッシャーに耐えかね、日本がロシアに宣戦布告した3日後、彼は喉を短刀で突いて自死。数えで19歳でした。白秋は彼の遺骸を戸板に乗せ、たんぽぽが咲く道を彼の家まで運んだ。その時の慟哭を、「たんぽぽ」という詩に書いています。

今、この若き青年を追い詰めた時代と似た空気が、世界中に蔓延しているような気がしないでもありません。日本にはドストエフスキーなどのロシア文学を愛好している人も大勢いるはずなのに、今はロシアに関して語ることはすべてタブーになっている感じがあります。実際に、あるオーケストラはチャイコフスキーの曲の演奏を取りやめたとか。さらにはロシア料理店を襲撃する人まで現れているようです。