「難民」の時代は今も続いている

ウクライナで一般市民が虐殺されたというニュースに対しては、みんな怒りを感じているでしょう。

日本は第二次世界大戦で、広島と長崎に原子爆弾を投下されました。東京大空襲では、一晩で10万人を超える一般市民が亡くなっています。アメリカ空軍はまず爆撃予定地の外周に爆弾を投下し、逃げられない状態にしてからその内側を爆撃する絨毯爆撃を行いました。まさに集団虐殺(ジェノサイド)です。

なぜ戦闘員以外も殺すのか。たとえば学徒動員で女学生は武器製造に従事し、市民は竹槍訓練などをしているのだから、戦争に協力する以上は戦闘員と同じである。そういう認識です。

また、ウクライナのゼレンスキー大統領は国民総動員令を出し、18~60歳の男性の出国を原則禁止しているようです。しかし、なかには自分は絶対に人を殺したくないと、女装して国外に脱出しようとした男性もいたとか。そういう人は、見つかったらたぶん非国民扱いをされるのでしょう。「殺したくない」は認められない。それが戦争です。

僕はずっと、「デラシネ」という言葉を使い続けてきました。僕が言うデラシネとは、自分の意思に反し、故郷から力ずくで引き離された人々のことです。たとえばクリミア半島にはクリミア・タタールという民族がいましたが、スターリンの時代に強制的にシベリアなどへ移住させられた。そういった例は世界中に多々あり、20世紀はいわばデラシネの時代でした。そしてそれは今も続いています。

今回のウクライナ難民に対して、日本でもヒューマニズムから心を痛めている人は多いでしょう。でも同じくらいの関心を、たとえばシリア難民やミャンマー難民に向けなければならない。イスラム教徒やアジア、アフリカの人たちに対しては無関心な現状が気になってしかたがありません。