家を追い出された僕たちは収容所のような場所でしばらく暮らしていたのですが、そこでは発疹チフスが蔓延するなど、口に出せない体験もしています。
そして、このまま待っていても引き揚げは期待できないということで、母を失ったショックで無気力になった父と、幼い弟と妹とともに脱北を試みました。2回失敗しましたが、3回目にようやく歩いて38度線を越えることができたのです。
敗戦から日本に戻るまでの出来事は、思い出したくもありません。人間、命を懸けて逃げる時は、人を踏み台にしてでも自分が生き残ろうとするからです。たとえばトラックに3人しか乗れない時に5人が乗ろうとしたら、先に乗った人は後の2人の頭を蹴飛ばさなくてはならない。「お先にどうぞ」みたいな精神の人は生き残れません。
だから僕は、「心やさしい人は帰ってこられなかった」と言っています。当時はまだほんの少年でしたが、その時に刻み込まれた罪の意識は、一生消えないだろうと思っています。
作家としてデビューしてからも、自分の体験は小説に書けませんでした。70歳になってようやく体験の一部をエッセイに書いたものの、書いたことを後悔する気持ちがなかったと言えば嘘になります。
僕だけではありません。500万人以上の引き揚げ者が、ほとんど口をつぐんだ。旧満洲や朝鮮半島では、自分たちの命を守るために、ソ連兵に女性を差し出した集団もあります。「子どもを売ってほしい」と言われ、共倒れになるよりはなんとかこの子の命だけでも助かるほうがいいとの思いから、泣く泣く子どもを手放した母親もいた。そんな本当につらい記憶、負の記憶は、封印するしかなかったのです。
なかには手記を発表している人もいますが、引き揚げ者の歴史に関しては、きちんとした公的な記録は残っていません。語り継ぐ世代がいなくなったら、事実は風化してしまうでしょう。そもそも神代から今に至るまで、歴史は為政者によって恣意的に描かれてきた側面があります。だから不都合な話や、人がつらさのあまり口をつぐんだ話は黙殺されてしまう。
僕は常々、書かれた歴史はフィクションであり、一人ひとりの記憶こそ本当の意味での歴史だと言っています。だからこそ、語り継ぐことに意味があるのです。