国民全体と云う中に「婦人」の存在を無視している
明治年間には藩閥、軍閥、財閥、学閥と云うようなものが特別に国家に役立った場合もあったでしょうから、其等の者が特権階級として国家の恩典や優遇を受けたのには多少の理由もあったかと想像されますが、今日は国民の知識が進んで、国民としての責任が個人個人に自覚されつつあるのですから、財産の有無を以て国民の創造能力を測定することは乱暴だと思います。
併(しか)し私達婦人の立場から考えて、猶(なお)最も大切な条件が一つ残って居ます。現に我国の先覚者達に由って唱えられて居る普通選挙には、国民全体と云う中に私達婦人の存在を無視して居ます。民主主義は男子ばかりの生活に適用されるものと限りません。文化生活に対する平等の権利は婦人にも分配されるべきものだと思います。否、それは婦人に於ても男子と同じく固(もと)より享得して居る権利です。唯だ私達はその権利の回復を要求すれば好いのだと思います。
民主主義の世界には男尊女卑主義の道徳は許されません。国民としての存在に男子と婦人の優劣を認める時代は過ぎ去りました。国家に奉仕する義務の負担者として、愛国者として、創造能力を保有する個人として、婦人の分担する所は男子と全く平等の位地にあります。
普通選挙と云えば、当然そのうちに男女の参政権が含まれて居るものと私は考えたいのです。この権利の要求から婦人を除外することは、婦人を非国民扱いにし、低能扱いにするものだと思います。決して徹底した普通選挙とは云われません。若し男子のみに限られた普通選挙が実施されるとすれば、選挙有権者は――二十五歳以上の男子として――千二百八十三万九千六十二人を数え、現在の有権者数に比べると非常に増加するに違いありませんが、之に二十五歳以上の婦人を加えることが出来たら、男女合せて略(ほ)ぼ之の倍数である二千五百万を計上することになり、我国総人口の約四割、現在有権者の約十七倍に当ります。そうなってこそ真実の意味で国民全体の政治と云うことも出来、私達自身の政治と云うことも出来ると思います。
こう云う自分の見地から、私は次の一文を、紀元節の日に青年会館で催された普通選挙同盟演説会の男子達に寄せました。私は婦人も進んでこの運動に参加することは、かの基督(キリスト)教婦人の慈善運動や、禁酒運動や、廃娼運動以上に緊急の必要を持って居ると考えるのです。其等の運動の如きも、一旦婦人参政権の回復を遂行さえすれば、それに由って今よりも幾倍か容易に実現され得べき運動であるからです。私は聡明と沈着とを備えられた婦人達が、この普通選挙運動に就て、各自の意見と態度とを速かに一定して頂きたいと思います。