1938(昭和13)年に撮影された与謝野晶子さん
今では当たり前になった男女平等の選挙権ですが、女性にその権利が認められるまでには長い道のりがありました。1890年に日本で初めて選挙が行われてから35年の間は、一定の納税額のある男性のみに選挙権が認められた「制限選挙」。男性全員(25歳以上)に選挙権が認められたのが1925年、女性が選挙権を得るにはさらに30年を費やしました。今からちょうど100年前、1919(大正8)年、本誌にて熱き思いを主張した、歌人・与謝野晶子さんの手記を紹介します。

与謝野晶子「婦人も選挙権を要求す」 


 

「より善く生きよう」とする所に特長がある

二月に入って俄(にわ)かに普通選挙の運動が各地に起り出しました。曾(かつ)て明治四十一年に政友会の提出した普通選挙法案が一旦衆議院を通過しながら、元老や貴族院の保守的勢力の圧迫に由って頓挫して仕舞ったことは、私達の記憶にまだ新しいのですが、今年の議会に国民党、憲政会、政府等から各別に三つの選挙法改正案が提出された際ですから、之を好い機会として、久しく眠って居たこの運動が十幾年振(ぶり)に復活して来たのだと思います。

之に対して私達婦人は、唯だそう云う事象が男子の間にあるとして冷淡に看過して好いでしょうか、どうか。言い換ればそう云う問題は私達婦人と直接に何の交渉も無いものでしょうか、どうか。私は之に就(つい)て、一般の婦人達とは勿論、併(あわ)せて一般の男子達とも反省してみたいと思います。

普通選挙は世界の大勢(たいせい)であるから之を要求するのだと云う人があるなら、私はその人が模倣同化の通有性のみあって、自由独創の個性に乏しいことを惜みます。今日は国家とか民族とかに由(よ)って制限される何物もありません。現に巴里(パリ)の講和会議で「国際聯盟」が討議されて居るように、個人の道徳生活の範囲はあらゆる民族とあらゆる国家との併存を包容したものの全体、即ち「世界人類」の平和にまで拡げられて居るのですから、世界の問題はやがて個人の問題ですけれど、その世界人類の中心となるものは常に個人なのですから、個人の自発的要求と合わない限り、世界の大勢であるからと云って、その良いものであるか、悪いものであるかを批判しないで、迷信的、事大的に受け容れることは出来ません。

古人が「千万人と雖(いえど)も我れ行かん」と云いました通り、自ら発し、自ら批判し、自ら確信する要求には、世界の大勢にも楯つき、わざと険を冒して避せず、命をも賭ける程の熱情と真摯と沈勇とがあります。

それなら、普通選挙はどう云う理由から個人の自発的要求として主張されるのですか。之に関する細論で最も参考となるものには、最近に佐藤丑次郎博士が公にされた選挙権拡張論がありますから、私は唯だ茲(ここ)に根本となる理由だけを述べて私の意見を加えようと思います。

人間は動物の如く単に「生きる」と云うもので無くて、「より善く生きよう」とする所に特長があります。悠久な昔に於て、人間が自然の法則に引きずられて専ら種族の保存と生理的欲望の満足とに終始する動物的生活を脱し、人為の理想と努力とに由って現に見るような燦爛(さんらん)とした、複雑な文化生活を創造するに到ったことは、如何にも万物の霊長として自負するに足ることだと思います。既に人間の生活が創造に創造を重ねて文化の内容を充実し、それを以て自他の幸福を増進する所に第一の価値を置くものであるとすれば、生活に要するあらゆる条件は、すべてこの第一の価値を実現する過程以外の何物であってもならないのは当然です。