我々は日本国民たることにおいて平等

創造は過去と現在とを材料としながら新しい未来を発明する能力です。この能力は個人のものです。個性的のものです。多数は之を助長し、併せて之を受容し、之と同化する作用はあっても、或(ある)一つの新しい文化内容を創造すると云うことは、厳格なる意味に於て全く不可能なことだと思われます。

人格の中心となるものは実にこの創造能力を推さねばなりません。若(も)し之を欠くならば、人は模倣同化の消極的生活にのみ終始して、自我の生存を主張する理由が薄弱になります。この創造能力を用いて、自存、自労、自活、自営の生活を建設してこそ初めて堅実な積極的の文化生活者と称することが出来ると思います。

この創造能力は一切の人類が個性とし具有して居るものであって、之を実際に用いて、生活のあらゆる体系――個人生活、家庭生活、国民生活、世界生活――に新しい創造を試みるために、人間は如何なる自己以外の権力にも圧倒されないだけの「自由独立の権利」を持って居ます。

例えば教育の自由、思想の自由、言論の自由、職業の自由の類が其れです。また、この創造能力を用いてあらゆる生活の体系に貢献する為(た)めに、個人個人がこの能力を開展する機会を均等にする権利、即ち「平等の権利」を持って居ます。例えば貴族の子も乞食の子も学齢に達すれば平等に教育を受けることが出来ます。之は教育を受ける機会の平等です。

また学術上の実力さえあれば、富豪の子弟も貧民の子弟も平等の学位を請求することが出来ます。之は学位を受ける機会の平等です。貧富貴賤、士農工商に由って階級の差等や権利の差等を認めず、一斉に同じ出発点に立って創造能力の競争に参加し得るのが「平等の権利」です。或階級の人間だけが特別の権利を持って便宜の多い偏頗(へんぱ)な生活をすると云うようなことの無いために必要なものが、この「平等の権利」です。

さて、普通選挙を要求すると云うのは、実にこの民主主義的の権利を――平等の権利を――日本人全体が政治の上に得て、国民として政治に参与する機会の均等を持とうとするが為めに外ならないのです。我々は日本国民たることに於て平等です。国家を愛し、あらゆる職業と労作を通じて、精神的及び物質的に国家に貢献して居ること、即ち国民としての義務を行って居ることに於て平等です。この愛国心と、この国民的義務の負担とに就て平等である我々が、どうして国家の政治に参与する権利に於ては不平等な待遇を受けねばならないでしょうか。