念願のリンゴ、あの時の味が忘れられない
それは、第二次世界大戦下の大阪でのこと。空襲警報が響くたびに、防空頭巾を被って大急ぎで近所の人と一緒に防空壕に逃げ込んだ。真夜中でも飛び起きて一目散に走る。日増しに爆撃が激しくなり、わが家も疎開することに。
シューシューと蒸気を噴き出す機関車に乗るのは初めてで感動したが、車内はすし詰め状態。戦火を逃れ、山を越え、小さな田舎の駅に着いたときにはほっとした。駅を出ると、満開の桜が美しく咲いていた。農村には米も野菜も十分あり、お腹いっぱいに食事ができると喜んだものだ。
大阪では食料がなく、米が少し入ったなかに小さな団子が浮かんだ「ぞうすい」の配給にも長い行列ができた。すべての食料は配給制という不自由な暮らしのなか、母は苦労して食べさせてくれていたのだ。
あるとき、私は本の挿絵で見た、真っ赤なリンゴが忘れられず、「どうしても食べたい」と毎日母に言った。母はどうすれば買えるか調べてくれたが、病人でないと買えないという。後日、私は転んで怪我をした。病院で治療した後、やっとリンゴを1個買ってもらうことができたが、いまでもあの味が忘れられない。
私は疎開先の小学校に転入し、稲の茎を乾かして作ったわら草履で通学した。朝食はさつま芋のお粥。弁当箱には麦ご飯、野菜の煮物、梅干しが入っていて、夢のようなご馳走だった。