戦死者の無念、母に届いた骨壺は空っぽ

疎開してきた私に対して、何かと気を使ってくださった担任の先生のやさしさを思い出す。「先生が戦死されたって」と友達から聞いたときは、驚きと悲しみが胸に広がった。終戦の数ヵ月前の召集だった……。

次第に「私のお父さん、戦死したんよ」「私の叔父さんも」などと、身内の戦死の話が増え始める。「じつは、私の兄も戦死したの」と、私も友達に打ち明けた。私と父親が異なる長兄のことだ。

「戦争」というと、どうも「戦死者」とひとくくりに扱われがちだが、戦争のせいで誰かにとって大切な人が死に追いやられた、という悲しい結果なのだ。その悲劇が戦地の至るところで起こっていた。

いまも長兄の姿が蘇る。もともと母は、祖父の勧めで旧家に嫁いだが、封建主義の夫に耐えられずに離婚して里帰り。そのとき、おなかに長兄を宿していて親元で出産した。その後、再び祖父の勧めで、母は私の父となる男性と再婚。長兄は祖父母に育てられ、働きながら学校に通った。やっと就職したとき、召集令状が届く。俗にいう赤紙だ。

当時母は、「お兄ちゃんは立派な兵隊さんとして外地に行って、日本のためにがんばってくれるんだよ」と次兄と私に話した。それから数年後、長兄は戦死してしまった。母に届いた骨壺は空っぽで、骨のかけらすら入っていなかった。

ビルマの激戦地でインパール作戦が展開され、参戦を命じられたようだった。数十年後、兄の友人で戦友でもあったAさんが訪ねてきてくださった。Aさんは、生きて母国に帰ることができたが、兵士の大半は戦死したと、その悲しい心の内を語られた。

「ビルマの戦地は悲惨だった。食料は底をつき、泥水をすすって熱帯熱マラリアや赤痢に苦しむ戦友。軍医も看護兵もいない。破れた戦闘帽、上着、靴で、精根尽き果てて倒木によりかかり絶命する兵士。泥のなかのあちこちに死体が沈んでいる。自分も飢えと恐怖で死ぬ寸前だったが、小舟を見つけて奇跡的に助かった――」

負傷したり病にかかったりした死体は、腐乱して骨も残らない。最高指揮官たちはエリートで安全な場所にいるが、兵隊はまるで鉄砲玉の代わり。遺された家族の悲しみ、寂しさ。戦争の悲惨さに打ちのめされて、私にとっても大きな心の傷となってしまった。

戦後、「岸壁の母」という曲が流行った。帰らぬ息子を待つ母。戦死した夫や子どもを持つ日本中の母が聴いていると思ったし、私のつらい気持ちを歌っていると感じて涙がこぼれた。