勘十郎さんが生まれて真っ先に対面したのは、生涯の恩師となる吉田簑助師匠(当時19歳)だった、というのも、のちの強い絆を感じる話。
──そうなんです。父がまだ舞台で手が離せないんで、「ちょっと見てきて」と言われて師匠が産院に来てみたら、未熟児で哺育器の中にいて、「お前、5本の指がマッチ棒くらいやったで」って言われるんですが、まさかね(笑)。ですから私の第一の転機というのは、この師匠に入門できたことだと思います。
現在、文楽の人形遣いは40何名かおりますけど、私が中学二年のころは26、7名しかいなくて。『絵本太功記(えほんたいこうき)』の「大徳寺焼香の段」には人形が十体くらい居並ぶんですよ。人形のと右手を遣う「主遣い」、左手を遣う「左遣い」、それから「足遣い」の三人遣いですから、もうそれだけで30名。
手伝いに来い、と父に言われて、いきなり足持たされたり、左もちょっと持ちましたね。そりゃ失敗もするんですけど、誰も怒らないんですよ。怒って、やめられると困るんでね。