夫がすべて、妻がすべて、という人にむしろ不安を覚える
こういう話を人にすると驚かれますが、私は結婚当初から、14歳年下のベッピがそのうち私以外の人間に恋愛感情を抱く可能性なんて、いくらだってあるだろうと思ってきましたし、今でも思っています。そういう可能性も込みで彼とは結婚をしました。
人生が50年だった時代は、20代で出会った伴侶と一生を添い遂げることもあったでしょうけれど、今や人間は100歳近くまで生きる場合もあります。
そうなってくると夫婦は老齢化した自分たちを支え合う共同体としての色は濃くなるでしょうが、そこへ至る何十年もの間に相手とは別の人にまったく恋愛感情や好意を抱かないでいられるという保証はありません。強烈な洗脳状態に陥らない限り、精神性の生き物である人間にはどんな感情の変化だって起こり得るのです。
自分は夫や妻以外の人にはまったく関心が湧かない、夫がすべて、妻がすべて、と断言するような人に出会うと、私はそこに掲げられている禁欲と正義的意識に対し、何か穏やかではないものを感じてしまいます。
夫婦は宗教ではありません。本質は他者と他者が結びついた社会単位にほかなりません。
にもかかわらず相手を自分の生きる理由であると宣言し、信頼という言葉で拘束し、自分の予定調和範囲での行動しか許さないようになっていく。
こうした「人生を確定化する」夫婦の結束の信念もまた社会統括には便利なものですし、大きな群れ単位の視点で捉えればありがたいものでしょう。人それぞれですから、それでいいという人にはそれでいいと思います。
私の場合であれば、もし夫とそんな絶対結束を意識した関係になるような日がきたら、夫婦関係を解消すると思います。
私がこんなふうに夫婦というものを捉えるようになったのは、幼少期に母からいつも「結婚も男性も人生の解決策ではない。まずは自分一人でも立派に生きていける人間になりなさい。結婚も家族もそのあとのこと」と執拗に言われ続けてきたことも影響しているのかもしれません。
私は多くのことを知りませんけれど、母は彼女なりの苦悩を経て、そういう結論に至ったのだと思いますし、その言葉には当時の幼い私たちにも強い説得力がありました。
※本稿は、『歩きながら考える』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
『歩きながら考える』(著:ヤマザキマリ/中公新書ラクレ)
パンデミック下、日本に長期滞在することになった「旅する漫画家」ヤマザキマリ。思いがけなく移動の自由を奪われた日々の中で思索を重ね、様々な気づきや発見があった。「日本らしさ」とは何か? 倫理の異なる集団同士の争いを回避するためには? そして私たちは、この先行き不透明な世界をどう生きていけば良いのか? 自分の頭で考えるための知恵とユーモアがつまった1冊。たちどまったままではいられない。新たな歩みを始めよう!