昔、自分もバラに触れようとする子供を止めたことがある。そうだ。たしかあの日もよく晴れていた。
英樹は当惑した。まるで映画のワンシーンのように鮮やかで印象的な光景だ。あの男の子は誰だ。あれは一体いつのことだったろう。
そう、空は胸が痛くなるほど綺麗な青で、すこし暑いくらいの陽射しが降り注いでいた。庭の芝も、木も、花も、レンガも、なにもかもがきらきらと輝く気持ちのいい午後だった。
ぐるりと見渡す限りどこもかしこもバラが咲いていた。虫の羽音がはっきり聞こえるほど静かで時間が止まったようだ。小さな男の子がたどたどしい足取りで庭を歩いている。灰色のシャツと茶色のパンツをはいていた。オムツでお尻が膨らんでいて、よちよち歩く格好はまるでアヒルのようだった。
男の子は真っ直ぐに満開のバラの花へと向かった。真っ赤なバラの花は青空の下でひどく異質で、人を吸い寄せる「仕掛け」に見えた。英樹は慌てて叫んだ。
―バラのほうに行ったらあかん。お母さんに怒られる。
英樹はコーヒーの紙コップを握りしめたまま呆然(ぼうぜん)としていた。あれは弟だ。二歳で死んだ和宏(かずひろ)だ。僕は弟と二人、バラが満開の庭にいた。僕はバラに触れようとする弟を止めた。
あのとき弟はどんな返事をしただろうか。思い出せない。記憶はそこで途切れ、弟はいつの間にか仏壇の中の位牌(いはい)になっている。いつ、なぜ死んだかも知らない。父も母もなにも話さない。
英樹は実家の仏間を思った。日当たりの悪い北側の隅にあっていつもじんわり湿っている。妹の玲子(れいこ)は露骨に嫌っていた。
―あたし、あの部屋大嫌いや。なんか気持ち悪いもん。
仏間だけではなく玲子は家のすべてが気に入らないようだった。そんな七歳下の妹の我侭(わがまま)さを英樹はすこし羨(うらや)ましく感じていた。
弟が死んだときのことを憶(おぼ)えていないが哀しむ母の姿は憶えている。ベビーサークルの前に座り込み一日中じっとしていた。泣いたりはしなかった。無表情のまま黙って置物のように動かないだけだ。父の姿は思い出せない。ずっと単身赴任だったせいだろうか。
なぜ急にこんなことを思い出したのだろう。居ても立ってもいられずに英樹はベンチから立ち上がると足早に歩き出した。行き先などない。ただただ闇雲に歩いた。
四月にしては陽射しが強すぎるせいか頭が茹(う)だったようでうまく働かない。なのに手足はじんと冷えて痺(しび)れている。逃げろ、もう考えるな、思い出してはいけない、と身体中が警告していた。
一体なにを思い出してはいけないのだろう。額(ひたい)を汗が伝う。あまり急いで歩いたので動悸(どうき)がして苦しい。口の中がからからだ。
そのとき、子供の歓声が上がった。中之島東端、剣先(けんさき)にある噴水から勢いよく水が飛び出すのが見えた。放物線を描く水に虹がかかっている。
美しい四月の午後だ。英樹はようやく足を止め額の汗を拭って息をついた。バラも弟もなにもかも夢だったような気がした。
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