モニターから一瞬だけ顔を上げて返事をしたが、すぐに眼を戻した。橋本は事務雑用からCADまでこなす有能な女性だ。今年三十歳になったばかりで柔らかいウェーブをいかしたツーブロックがよく似合う。二人の子を抱えたシングルマザーで毎日保育園のお迎えのために五時には事務所を出る。一秒たりとも残業はしないから仕事への集中力は舌を巻くほどだ。
 青いドアを開けて外へ出る。英樹は思わず手庇(てびさし)をした。数日前までは黄砂(こうさ)で霞(かす)んでいたが今日は嘘(うそ)のようにクリアな空だ。
 北浜は大阪市内を流れる土佐堀川(とさぼりがわ)の南側、古くから金銀米などの取引で栄えた一角だ。明治期に大阪株式取引所が開設されると金融の中心となり、一帯には当時の面影を残した様々な近代建築が残っている。中之島公園からも近く、最近ではレトロなビルをリノベーションしたカフェやギャラリーが人気だ。
 大阪証券取引所ビルの前を通り過ぎ、土佐堀通りをぶらぶらと歩いた。川沿いのテラスカフェを素通りし、難波(なにわ)橋を渡って中之島公園へ降りる。中央公会堂を眺めながら英樹は公園内をぐるぐると歩き続けた。
 美沙(みさ)に妊娠を告げられてからどことなく落ち着かない。父親になる覚悟ができないどころか、そもそも自分が父親になるという実感がない。まるで他人事(ひとごと)だ。美沙が仕事の調整について悩んでいるのに自分はただぼんやりと戸惑っているだけだ。
 コーヒーを買って中之島公園のベンチに腰を下ろした。バラはまだ蕾(つぼみ)で青々とした葉が茂っている。ここのバラ園も咲けば見事だが母の庭には敵(かな)わない。バラに埋め尽くされた母の庭は色も香りも圧倒的に濃密で恐ろしいほどだった。

 遠くで子供の歓声が聞こえた。ベビーカーを押す親の横を男の子がとことこ歩いて行く。バラの花壇が気になるらしく何度も触れようとする。そのたびに母親が止めた。
「触ったらあかん。棘(とげ)があるから痛い痛いなるよ」
 英樹はその様子をじっと見ていた。おぼつかない子供の歩みを見ていると、全身がむずむずするような奇妙なもどかしさを覚えた。昔、こんな光景を見たことがあるような気がする。なんだろう。なにかを思い出しそうな気がする。
 ちりっ、と胸のあたりが引き攣(つ)れた。コーヒーを持つ手が微(かす)かに震えた。どうしたのだろう。急に喉が詰まったようだ。
 そのとき、男の子が悲鳴のような歓声を上げると急に駆け出した。
「お母さんを置いて勝手に一人で行ったらあかん」
 母親が叫んで男の子を慌てて引き戻した。男の子は甲高い悲鳴のような笑い声を上げた。

 ―お母さんを置いて勝手に一人で行ったらあかん。

 瞬間、頭の中で音もなく蓋(ふた)が開いた。透き通ったガラス製の蓋だ。むせるようなバラの匂いに包まれる。英樹は思わず呻(うめ)いて硬直した。