そもそも世の中には、理由が曖昧なものや、理由のないものも少なくないんですよ。たとえば、母としての自覚からギリギリのところで踏ん張っていた蓮音は、たいして好きでもない、くだらない男の「まだ、いいじゃん」という一言で、子どもたちの待つマンションに戻らなくなります。こういう種類のことって、誰の人生にもありますよね。そこのところを絶対に逃すまいと思いました。
◆他人の物語が自分の物語に
琴音は、家庭内での暴力と性的虐待によるトラウマを抱えており、ある日、幼い蓮音を残して家を出てしまう。母の出奔を機に、誰かにすがるという行為を自分に禁じた蓮音は、「がんばるもん、私、がんばるもん」と呪文を唱えながら、人に頼ることを知らずに育つ。
読者にとっては、ページをめくるのがつらくなるようなシーンの連続だ。とくに飢えと渇きで衰弱しながら、母との幸せな思い出を必死でたぐり寄せようとする桃太のパートは殘酷さが際立つ。こんな物語を書くのは、さぞ苦しかったのでは、とたずねたら、「そういうことって、全然ないんです」と即座に答えが返ってきた。
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よく、作品の世界に持って行かれそうになりませんでしたか、と聞かれるんですけれど、そういうことが起こるような状態では小説は書き始めません。すべてを自分のものにして、書くべき世界を頭の中で完全に作ってからがスタートです。
物語も後半に入ると、最初の一行がなぜ最後の一行につながるのかまで見通しています。書いている最中は、帰結に向かってそこにいる人をどうやってすき間なく描くかということだけに集中する。登場人物に感情移入して泣いちゃった、なんてことは絶対ないのです。
それに、私は原稿用紙にサインペンで手書きするので、迷いがあったら書けません。途中まで書いては紙を破る、といった無駄なことは断じてしたくないので。(笑)
だから、一番苦しいのは書く前。最初の一行を書き始めるまでに何ヵ月もかかります。その間、一文字も書かずに、うんうん考えているわけですが、困ったことにこの期間の私って、仕事もせずただ飲んだくれているように見えるみたいなんです。こっちは苦しくて大変なのに「余裕ですね」とか言われちゃう。(笑)