撮影:岡本隆史
2010年夏、大阪のマンションの一室に放置された3歳と1歳の兄妹が、飢えと渇きの果てに死亡した「大阪二児置き去り死事件」。二人を置いたまま遊び歩いていた当時23歳の母親は「鬼母」と呼ばれ、激しい非難を浴びた。新聞連載時から大きな反響を呼んだ山田詠美さんの新刊『つみびと』は、この事件に着想を得て書かれた小説だ。意外にも山田さんが実在の事件を題材にした小説を書くのは、初めてだという(構成=平林理恵、撮影=岡本隆史)

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◆小説で人間の内面に分け入る

大阪の二児置き去り死事件は、発覚当初からなぜか気になってしかたがない出来事でした。あのとき、メディアで発言する人たちが、どんなに糾弾してもかまわないひどい罪人が現れたとばかりに、いっせいに「勧善懲悪」の立場で母親を叩き始めました。

彼女が風俗店で働いていたことや男友達と遊び回ってその様子をSNSにアップしていたことが取り上げられ、「鬼母」などと騒がれた。確かにひどい母親だし、やったことは許されることではありません。でも、罪人とはいえ一人の人間。報道で伝わってこない面もあるはずです。

人生の分岐点で選択をひとつ間違えたがために、あちら側に滑り落ちてしまい、人生がどうにもならなくなっていく、そんな可能性は誰にだってあります。正論を吐いて彼女を攻撃する人たちは、そんな想像力を持ち合わせていない、だから分岐点の存在にも気づけないんだろうな、とも思いました。

それで、ずうっと彼女のことが心に残っていたのですが、数年前、週刊誌の犯罪特集を読んでいてこの事件に再会したんです。そのときにね、「あ、これは私の出番だ」と思っちゃった。

この事件を綿密に取材したすばらしいノンフィクションは、すでにその時点で世に出ていました。でも、当事者たち一人ひとりの内面に分け入っていくのは、ノンフィクションでは難しい。そこを書くのが小説家の仕事ではないかと。

そう考えたら、ノンフィクションの枠組みを借りながら、その世界をもう一度語り直したいという欲望が私の中でムクムクと膨らんできました。自分自身の人生を語る言葉を持たない人たちのために、私が言葉を尽くして語り直そうと思ったのです。

こんな気持ちから、三十数年にわたる作家人生で初めて、実在の事件を題材にした小説『つみびと』を書くことにしたというわけです。カポーティの代表作『冷血』のようなノンフィクションノベルをいつか書いてみたいと思っていた私にとって、これはひとつの挑戦でした。

加えて、新聞連載という形式も初めて。そして、なにより、子どものいない私が、子を産み育て、結局は放置してしまった母親の思いを、想像力を尽くして書くということ。いろいろな意味で、『つみびと』は私にとってチャレンジングな作品となりました。