「歴史が得意」ってどういうこと?

すっかりダメダメになっていた自分を変えたきっかけ――それは武蔵時代の同級生によるひと言であった。

『歴史学者という病』 (著:本郷和人/講談社現代新書)

のちに『日本国憲法制定の系譜』という大冊のシリーズを著することになる憲法学者、当時は文科一類の1年生だった原秀成という風変わりなその男は、同窓という気のおけない会話の途中で、私に向かい、ふとこう言った。

「ところで本郷は歴史が得意だけど、それってどういうこと?」

訊かれた瞬間、喉が詰まった。分からなかった。友による悪意のない、むしろこちらに対して敬意をもって問われた言葉に、私は正面切って答えることができなかった。

年号や出来事に通暁し、歴史に詳しいという状態は、実は単に「物知り博士」なだけではなかろうか。そんなものは、たいして評価されるものでも威張れるものでもないと自覚した。

自他ともに「歴史が得意」と認めてきた私だが、「歴史が得意」というのは具体的にはどのような状態を指すものか、考えるほど分からなくなった。「暗記が得意ってこと?」と助け舟も出されたのだが、意味としては違うと思った。

ライバルのような学友の目の前で、自分がながらく思い込んでいた「得意」の中身を、その実まったく理解していなかったことに私は激しく落ち込んだ。

還暦を迎えた今の私が助言するのであれば、「歴史が得意」というものの正体は、(歴史を分析するための)国語力を素地とした大局的な構想力や構成力、分析力のことだよ、となめらかに答えられる。しかし当時はひしひしと、自分のうつろさが痛かった。

ついに私は思い立った。もう少し勉強しようと。分からないことを認めて勉強しよう。

こうして私は、「学問としての歴史」というものを、調べてみようと少しずつ動き出した。