キャンパスにはどこにも身の置き場がなかった

体育の授業を受けるために着替えるだけでも疲れ果てた。

「なんだよみんな、縞々のデカパンなんてはいちゃって」と更衣室で苦笑いをかみ殺した。意気揚々とグンゼの白ブリーフをはいていたのは自分独りきりだった。私の下着は社デファクト・スタンダード会標準ではなかったのだ。

東京大学本郷キャンパスを象徴する”赤門”(写真提供:Photo AC)

世間をまるで知らないし、アルバイトなんてしたこともない。サークルに入るなどとんでもなく、帰宅部はおろか、自宅に閉じこもっては『水戸黄門』の再放送を眺めるばかりの暗い新入生生活が始まった。

キャンパスでは、これまでの価値観では立ち向かえない人びとが多勢であった。しかも私はお酒を一滴も飲めない完全下戸である。合コンを持ちかけられても帰りたさばかりが脳裏を占めた。

時は1979年、サザン・オールスターズが『いとしのエリー』を歌った年である。軟派を決めこむか、「造反有理」の名のもとにゴリゴリの左翼的政治活動に身を捧げるか、という両極端が花形の世界であった。私にはどちらも無縁の世界だった。

頭でっかちのわりに無用者を標榜していた私は、そのくせ、みんなのために生きたいという正義の味方なふしがあった。

校門の前に陣取って「ご通行中のすべての学友の皆さん!」とアジる活動家を見かけるたびに、偽善者め、どうせ一皮むけば欲望の塊のくせに、と毒づきながら後にした。

あのころは本当に辛かった。キャンパスにはどこにも身の置き場がなかった。高校時代に発症したパニック障害の発作もトラウマ級に恐ろしく、閉ざされた教室で試験ひとつ受けられないうえ、その事実を家族にも打ち明けることができなかった。

「自分はどうしたらいいんだろう」と悩み果て、中高時代の友人ばかりと後ろ向きにつるみながら、1、2年生という教養学部の駒場時代をこれ以上ないぐらい無為に過ごしてしまった。今ではもう聴くことが叶わない魅力的な講義がたっぷり存在していたというのに、なんともったいないことをしたのだと悔やまれる。

つまり、それほどまでに憔悴しきった時期であった。

学生諸君へ。何十万円もの学費を払って授業に出ないというのは、貴重なお金をドブに捨てる行為に等しい。貴方の人生を大きく変える恩師や講義にいつめぐりあえるかも分からない。リモートでもなんでもいいから授業は聴講しておこうぜ!

私の心からの叫びである。