文学から見た実朝像
ぼくが実朝で直ちに思い出すのは、小林秀雄の『モオツァルト・無常という事』(新潮文庫)所収の「実朝」です。
小林はかの俳聖・芭蕉の実朝論に先ず言及します。芭蕉はお弟子さんに『中頃の歌人は誰なるや』と問われて、言下に『西行と鎌倉右大臣ならん』と答えたそうです。実朝の和歌は昔から評価が高かったのですね。
それで肝腎の小林は、実朝の名歌である
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波の寄るみゆ
を挙げて、「わたしはこれをとても悲しい歌だと見る」といいます。「実朝をその歌から、いわば内面から分析すると、透明な実朝という人が感得できる」というのが小林の実朝論だったように覚えています。
2020年に亡くなった山崎正和先生の『実朝出帆』も、かかる実朝イメージに重なるものでした。
山崎先生は実朝を、権力闘争のまっただ中にいながら「純粋すぎる魂」をもつ青年と捉え、中国へ向けて船出する、という彼の夢を阻止する役回りとして北条義時を配しました。
作中の義時は甥である実朝を愛し、理解しようとしながらも権力の人として振る舞わざるをえないのです。