鎌倉に居場所を持たないのを十分に知っていた
実朝の歌に、小林は先述のように「悲しみ」をみた。思想家の吉本隆明は、「ニヒリズム」を感じ取っています。ぼくは歌のことはよく分かりませんが、有名な百人一首に採られた歌には切なさを感じずにはいられません。
世の中は常にもがもな 渚漕ぐ海人(あま)の小舟(をぶね)の 綱手かなしも
訳としては、「世の中の様子は、いつまでも変わらずあってほしい。波打ち際を漕いでゆく漁師の小舟は、舳先にくくった綱で陸から引かれている。そんな普通の情景がいとおしい。」
「かなし」=いとおしいのは、つきつめると「綱」、なんです。小舟は綱で陸につなぎ止められている。綱がなければ繋がりをなくした舟は沖合に流されて、行方知れずになるか、沈んでしまうか。でも綱があるので、今は何とか渚をたゆたっている。
小舟は実朝でしょう。実朝は自身が鎌倉に居場所を持たないのを十分に知っている。でも「今は」綱が自分を鎌倉につなぎ止めている。
綱が具体的に何を意味するかは、分かりません。母(政子)や叔父(義時)が主導する政治状況なのか、神仏の加護なのか、それとも天の配剤なのか。
綱がいつまで小舟をつなぎ止めてくれるのかは定かでないけれども、私はそんな「今」をいとしく思う。
ぼくはこの歌をそんな風に解釈してみました。それで思うのです。こうした寂しい歌を作る実朝が腕まくりして、バリバリと仕事をこなしているようには思えないなあ、と。
さあ、大河ドラマは実朝をどう描写するでしょうか。またその最期はどのように描かれるのでしょうか。それはまさに「見てのお楽しみ」。
でもぼくのイメージする実朝は、斬りつけられて最期を迎えた際、どこか微笑んでいる…。そんな想像までしてしまうのです。